室町幕府と琉球について考える

画像は足利義昭(旧)。

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天カードなんでお目にかかるはずもなし。つーか、合戦報告書でもお目にかからない。基本的に私は足利義昭を大殿としている。問題は足利義昭がなくなったらどうするか、である。
近年室町幕府に関する研究が進展している。20世紀までは室町幕府といえば、足利義満以降衰えていって、飾り物にすぎない、と見られてきた。特に応仁の乱以降は解体過程とみなされてきて、戦国時代の室町幕府はほとんど存在意義を持たないものとされてきた。近年は室町幕府を要とした秩序の存在に着目する研究が主流である。
室町幕府と外国人との関係も近年研究が進展した分野である。従来は足利義満が明の冊封体制に入ったことを重視し、それを屈辱的と見るか、天皇を相対化する戦略的なものと見るか、であった。しかし冊封体制という、中華帝国を宗主として周辺諸国をフラットに位置付ける体制が、中国の欲望ではなく、実体を持っていたのか、という疑問が出される。そういう研究動向に答えるように室町幕府と明との関係も見直されようとしている。
明に対して義満が卑屈な態度をとった、ということの典拠は『満済准后日記』である。満済斯波義将から聞いた話として義満が明に対して卑屈だった、としている。しかし近年の研究で明らかになったのは、義将はそもそも明の使者と義満の対応を見てはいなかったことである。そしてそこでは義満はあたかも自らが皇帝であるかのように振舞っていた、というのだ。それを橋本雄氏は「中華幻想」と呼び、黒嶋敏氏は「足利の中華」と呼んだ。東アジアの海域でそれぞれの王朝はそれぞれの華夷秩序を構築しようとしていたのである。黒嶋氏の今回取り上げる論文は2000年に発表された論文であるから、いわゆる「足利の中華」論を踏まえたものではなく、むしろ氏の「足利の中華」論の前提作業となるものと位置付けられよう。
琉球室町幕府の間にやり取りされていた文書は、従来知られていたのは室町殿から琉球国王宛てられた文書だけであった。それは御内書と呼ばれる守護大名宛の文書の形式と同じで、なおかつ仮名書きであった。そしてその理由として琉球からの文書が仮名書きであり、そこに琉球に対する同種同文意識を見出すのが通説的な見解だったのである。
しかし室町幕府の文書の研究が進み、琉球国王から室町殿への文書や、管領と「王将軍」と呼ばれる琉球重臣との間でやり取りされた文書が見つかると、そのような仮説は成り立たなくなった。室町殿から琉球国王への文書だけが仮名書きで、それ以外の文書は漢文だったのである。当時の東アジアの諸国では公文書は基本的に漢文で表記する。日本では漢字の書けない人が仮名書きを使う位である。要するに仮名書きの文書は敢えて出すものではなく、仕方がなく出されるものである。鎌倉時代、多くの御家人は仮名書きの譲状を出した。漢文が書けないからである。しかし鎌倉幕府が出す関東御教書や関東下知状などは漢文である。漢文が書けたとしても、女性が出すという建前の文書、例えば女房奉書は仮名書きである。女性の大名(といっても細川勝元の娘で赤松政則正室の洞松院のことだが)に出す文書は仮名書きであったようだ。
一方、琉球国における公文書は仮名書きであった。つまり室町殿は琉球国の文書に合わせた様式で文書を出していたのである。これは琉球国王から室町殿への文書にも当てはまる。琉球国王は日本の文書に合わせて和様漢文の文書を出したのである。
つまり日琉間の国書は相手方の文書を模したものであった。それは文書様式だけではなく、室町殿から琉球国王への文書は国内向けの御内書の上下を切り詰めたもの、という記述がある。そうすると寸法が琉球王府で使われていた文書と同寸法になるのである。
そのような作法は室町殿と「琉球国世の主」との間でのみ成立していたのである。黒嶋氏は室町殿のみが琉球宛て国書を発給できた事実は存外に大きな意味を持つ、と指摘する。明・朝鮮・琉球の通交権は室町殿の専権事項に属しており、室町殿の発給する御内書は符験としての性格を含む特別な文書とする認識が存在した、と黒嶋氏は指摘する。
さらに室町殿と「よのぬし」は対等ではなかった。室町殿の発給する御内書は上意下達文書であり、琉球からの文書は上申文書の体裁を取っていた。また琉球使節と室町殿の対面儀礼は、庭の筵に使節が座り、室町殿に拝謁する、という上下関係を可視的に表現したものであった。黒嶋氏は琉球との通交は、貿易と周辺民族支配という二つの欲求を満たすものであり、琉球もこの上下関係を受容していた、と指摘する。