島津貴久と島津義久と琉球を考える

画像は島津貴久

島津義久

貴久から義久への代替わりの時に「あや舟一件」という事件が起こる。琉球に対する薩摩の干渉と抑圧が強まるきっかけとされる事件である。
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島津義久島津義弘島津家久・島津歳久・島津貴久の内三枚で部隊スキルが発動する。現在島津義弘島津家久は持っているので、貴久を入れると薩摩隼人が発動する。しかし家久も貴久も今ひとつ優秀とは言えないカードなので、持っていた貴久は合成素材に使ってしまった。家久はこの前白くじで引いたので、合成素材に消えたw
応仁の乱後、日琉関係において島津氏の権限は増大して行く、とされている。応仁の乱の最中に島津氏は室町幕府から印判を持たない船の琉球渡航の取り締まりを委嘱され、その権限をテコに幕府が発給してきた印判を島津氏が直接発給するようになった、とされる。貴久から義久への代替わりの時に琉球の違反を咎め、次第に琉球に対して高圧的に振る舞うようになって行き、琉球は島津氏へ従属化していく、と整理されている。しかし黒嶋氏はそもそも島津氏の印判は日琉関係を規制するような存在なのか、という疑問を呈する。
応仁の乱の最中に島津氏に印判を持たない船の取り締まりを委嘱したのは、従来考えられていた幕府ではなく、細川勝元であることが明らかになっている。さらに島津氏が直接発給した論拠となる史料は、その伝来過程からみて信用できない、とする。また琉球が島津氏の印判を受け入れた、とされる出来事は、明からの冊封使を迎える中、厳戒態勢を敷いた琉球から島津氏への申し入れであって、いわば琉球の都合による臨時の防衛措置を島津氏に依頼している、ということである。
従来「印判」と一括されてきたものは、その実態は文明年間(15世紀後半)の細川氏の印判、永正期(16世紀初頭)のあやしげな「印判」、そして永禄(16世紀中頃)の島津氏印判となり、それらを同一の制度と見るのは無理がある。さらに大永〜弘治(16世紀前半)において印判の存在を明示する史料が皆無であることも重要である、と指摘する。
それらの検討を踏まえ、黒嶋氏は島津貴久が出した1563(永禄6)年の印判状を検討する。この印判状に関して注意すべき点として、黒嶋氏が挙げるのが、1563年が確実な初見であり、しかも現在まで島津氏領外からは発見されていない、という点である。むしろそれは渡航許可証というよりは、船手形に類似すべきである、という。しかもその違反規定も違反者の成敗権が琉球にあることを考えれば、島津領船舶の船籍を保証する文書であり、島津領の船にのみ適用された制度としている。日琉を往復する船にとっては、島津氏よりも那覇港着岸の成否の方が現実面で問題になったのであるが、16世紀半ば以降、那覇港は防衛体制をとり、入港制限を行い始めていた。逆にいえば那覇港入港許可さえ保証されれば、島津氏印判状にたよる必要もない。
島津氏が琉球に政治的圧力をかけた、とされるあや船一件の位置づけについても、通説がとは違う解釈を黒嶋氏は提示する。あや船一件とは、文明期以降、島津氏に派遣され続けた琉球の正式通交船であり、朝貢のニュアンスで捉えられていたあや船が、貴久から義久への代替わりに派遣されたが、その使節に印判状違反や粗略な対応を非難し、琉球使節は先代の王の死去などで混乱していたためと、ほうほうの体で弁明するも、島津氏の強圧化が進んだ、とされる事件である。この事件について、従来の見解が島津氏の視点から叙述されているのではないか、と通説に疑問を呈し、事件の詳細を島津氏の交渉役が記録した史料から探る。
その結果、老獪な外交戦術をとる琉球に島津氏が困惑し、焦燥感を募らせているのである、と考える。強大化する島津氏権限と従属化する琉球という整理は崩壊したと言ってよい、と主張する。
虐げられる弱者という見方について私が想起するのは、クナシリ・メナシの戦いである。松前藩と幕府から見た史料を分析して導き出された見解では、アイヌが飛騨屋に搾取されている、という図式であった。その図式を正面から批判した研究は、高名なアイヌ史研究者から感情的とも言える非難で迎えられた。黒嶋氏の研究も実は厳しい批判にさらされることになる。