朝倉義景と島津義久と琉球を考える

画像は伊東義祐。

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ほとんど知らないが、どうやら島津氏と琉球の関係を理解するためには押さえておかなければならない人物のようだ。
黒嶋氏は琉球と日本の関係を次のように時期区分する。
第一期、応永(1420年ごろ)〜文正(1460年ごろ)
第二期、文明(1470年ごろ)〜永正(1510年ごろ)
第三期、永正(1510年ごろ)〜天文(1560年ごろ)
第四期、永禄(1560年ごろ)〜
第一期は足利将軍と琉球国王が通交の主体だった時期で、この時期、琉球からの使者は毎年のように来航しており、足利将軍との間に明確な上下関係を保っていた。足利将軍にとっては異民族支配を演出でき、琉球にとっては自らを下位とする秩序を受け入れても通交を続けるメリットがあった時期である。
第二期は細川氏による印判制の時期である。細川勝元によって構築され、細川政元細川高国の時代に存在し、三宅国秀が殺されるまで存続した体制である。そこでは畿内琉球の通交が続いており、取次と南九州から琉球の警固を担当した島津氏や、畿内から南九州までの警固を担当した瀬戸内海賊の存在がクローズアップされる時期である。細川氏が独自の印判制を構築した背景として黒嶋氏は、外交文書に押印される「徳有鄰」の印章が勝元と対立していた蔭涼軒主に掌握されていたからだ、と推定する。そしてこの時期に琉球から足利将軍の代替わりにあや舟が派遣されていた。
第三期は島津氏が内部分裂によって対琉球関係から姿を消し、代わって大内氏が中核を担う時期である。細川高国大内義興足利義稙を将軍として構築した政権(この時期に塚原卜伝が京都で武者修行をしていた)が、大内義興の帰国、細川高国による足利義晴擁立によって瓦解し、大内義興細川高国の対立は寧波の乱として日明関係の崩壊をもたらす。その後の対明関係の修復に先行した細川高国に対抗しようとした大内義興が頼ったのが琉球であり、琉球を介して大内義興は日明関係を独占することに成功する。
第四期は大内氏が大友氏との対立の果てに滅亡し、島津氏は島津貴久を中心にまとまり始めた時期である。琉球は島津氏の空白期において島津氏と南九州の派遣を巡って争っていた伊東氏と関係を深め、それに対して島津義久は南九州の船の島津氏による管理とその履行を琉球に求めることになる。この時期に島津氏は足利将軍との関係を強調することになるのだが、従来はそれを嘉吉附庸説という、存在しない神話に求めたりしていた。実際江戸初期にはその神話が成立するのだが、実際に足利将軍との関係がなかったのかを黒嶋氏は追究する。その結果、朝倉義景島津義久との間に越前から琉球に至る船の管理と警固を島津義久朝倉義景が担当する、というシステムが構築されていたのではないか、とみる。そして登場の朝倉義景といえば単なる大名ではなく、次期足利家督資格者である足利義昭が匿われていた訳であり、それは中央政権とみなしうるものではなかったか、とみる。そして島津氏は義昭・義景政権からの琉球通交計画を、自身の印判制による琉球通交管轄の正当性とし、琉球にその遵守を求めて行く。