「『古案写』の分析」を読む

黒嶋氏の書評作成関連企画。というか、締め切りは五月末(滝汗)。今第五章。全部で九章もある。この企画を終わらせて、それを元にして原稿書いて提出しなければ(焦)
画像は島津義久(新)

Copyright © 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.
黒嶋氏は近世初期に薩摩藩で作成された文書集の分析を通じて、当時の薩摩藩がどのように琉球ー薩摩関係を把握していたのかを分析する。そこで使われる史料が「古案写」と呼ばれる、文明〜慶長期の文書45通を分類して収録した文書集である。『那覇市史資料編』に収録されている。成立は1655年という。その作成の経緯を黒嶋氏は「島津相模守」宛の「琉球国世主書状」を通じて絞り込む。
この文書は薩摩藩の家譜類では1526年としてきた。しかし文書をじっくり観察すると、その年代比定には無理がある、とする。琉球国王と島津本家との書札礼は対等であったにもかかわらず、この文書は明らかに「島津相模守」を下位に位置付けている。つまり「島津相模守」は島津本家の当主ではなく、「披露」を担当する存在である、とする。とすると、「島津相模守」は1526年の島津本家当主の忠良ではなく、島津相州家の友久か運久と見られ、年次ももう少し遡るはずだ、とする。この文書は奥州家伝来文書ではなく、1652年に島津家に献上されたものであった。
島津家文書の形成過程はかなり複雑な過程を経て成立してきた。15世紀末から島津本家であった奥州家の統制力は弱まり、分家や有力家臣による内部抗争が頻発、1535年に鹿児島を奥州家の勝久は追われ、相伝の重物とともに島津家文書を携えて日向から豊後まで逃亡する。薩摩では忠良ー貴久ー義久と続く忠良系島津氏が台頭し、義久が日向を掌握して以降、奥州家文書は段階的に勝久の子孫から義久とその子孫へ献上されて行った。最終的に1649年に文書目録が作られ、それをもとにして1657年には島津家の家譜編纂がひとまず完成する。
このような経緯を考慮すると、「古案写」は非常に「興味深い時期」に成立している、と黒嶋氏は指摘する。「古案写」と原文書を比べると部分的に誤字が見られることから、直接原本を見た可能性は低く、「古案写」の原型というべきものが存在したはずで、その成立は「島津相模守」宛の「琉球国世主書状」が献上された1652年5月から1655年4月までに限定される。薩摩藩では明清交替に伴う東アジア地域の緊張情勢に対応して琉球方の家老を設置するのが1654年である。緊迫した東アジア情勢の中で薩摩藩琉球の関係を正統化する「由緒」として重要な文書を選択し編纂したものが「古案写」の原型であり、それを琉球薩摩藩琉球の関係についての公式見解として渡したものが「古案写」だったのだろうとする。それゆえに薩摩藩に合わせた文書の改竄の可能性があるわけだが、その実例として黒嶋氏が挙げるのが、「島津忠良琉球国世主書状」である。
この文書は対等だった琉球ー島津本家の書札礼に比べ厚礼にすぎること、本文中に列記された多数の進物が不自然であること(進物は別に目録を作る)などから、別の書状から改竄されたものであるとする。それは結局琉球国王島津忠良関係の根拠とされてきた。逆にいえば、それだけ忠良による家系の交代が大きな断絶であったことを示している。忠良の時代には、琉球ー島津本家のような対等の外交関係を展開した勢力は確認できず、史料的に空白となる。