16世紀の印判とあや船を考える

ついに督促メールが編集部より来た(>人<;)早く仕上げなければ(^^;;
画像は種子島時尭

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コストが低いので秘境要員。それ以外に使ったことがない。つーか、この学ラン来た爽やかなツッパリ(古っ!)風の絵柄が(以下ry)
忠良系島津氏にとっては肝付氏や種子島氏のような抵抗勢力がいて、琉球からすれば、忠良系島津氏に限定せずに、日向の伊東氏やそれと結ぶ肝付氏、種子島氏とも交流を保った方が有利である。忠良系島津氏である貴久ー義久にとっては、琉球の交流相手を自らに限定する必要性があった。
貴久が修理大夫に任じられた1552年には薩摩半島の大部分を押さえていた日新斎*1忠良系島津氏であったが、一方で守護家伝来の文物は鹿児島にはなく、1578年の義久による日向制圧まで、南九州を統一的支配下に置く勢力はなかった。守護家の権威を吸収し、琉球との対等外交権を獲得する過程として薩琉関係を読み解く必要がある、と黒嶋氏は主張する。守護島津氏*2が円滑に継承してきたと考えられてきた印判とあや船の連続性を「琉球国那覇主部中書状」(史料4)と「琉球国三司官書状写」(史料5)から否定する。
史料4は印判があくまでも1561年の明の冊封使来航に際して那覇の厳重警備のために、臨時措置として島津氏印判状が船舶管理のために適用されたことを示しており、島津氏印判制はこれ以前には恒常的に確立もされておらず、適応も限定的であったとする。
史料5はあや船を島津守護家のために派遣した事実を否定し、島津貴久への派遣要求も拒否する。
1556年に琉球からの働きかけによって忠良系島津氏と琉球の関係が始まるが、その背景には薩摩半島の主要港を押さえる忠良系島津氏の台頭に加えて、琉球でも王位継承争いを経て尚元が即位していることが指摘される。
しかし尚元と貴久の提携も盤石ではなかった。大隅半島の肝付氏は祢寝氏や伊東氏・種子島氏と連携して貴久に抵抗すると琉球と島津氏の連携も動揺する。南海を目指す船は肝付・伊東氏とも良好な関係を結ぶ必要がある。琉球としては対立する勢力の片方に与するのは得策ではない。しかし伊東氏が滅亡し、肝付氏や種子島氏が義久に服属するようになると、あや船を派遣し、印判制も受容するようになる。肝付氏が義久と対立すると、肝付氏など、義久と対立する勢力を締め出す目的で印判制の遵守が執拗に求められる。そしてその関係を「往古の堅盟」と称して、古くから島津氏と琉球の間で印判やあや船が機能してきたように装ったのである。

*1:じっしんさい、と読むことを同盟員の方よりご教示いただいた。ていうかウィキペディア読めよ、という話だが。

*2:奥州家、この辺り個人的には用語を統一した方がいいと思う。尤もどの口がそれをいうか、というか、壮烈なブーメランというか、そういう気はするが。