「十五世紀後半の印判・あや船」を読む

画像は島津貴久(極)。

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こんなものが出ていたとは知らなかった。部隊スキル薩摩隼人を発動させようとすれば、島津義久島津義弘島津貴久島津家久・島津歳久のうち三人が必要だが、まともに戦力になるのが義久と義弘で、家久は指揮兵数が物足りなく、被害が集中するし、貴久(上)は適性とコスト比に問題があるし、歳久は問題外、義久はそもそも天カードを持てる訳もない。義弘・家久・貴久(上)で発動させるしかなかったわけだが、これが貴久(極)ならば話は違う。家久は避雷針として赤備でOK。もっともまだ上級兵の研究には取り掛かっていない。というか、そもそも貴久(極)はまだ持っていない、というか、そもそも早く書評を提出しろ、という話だ。
島津氏(奥州家)と琉球の確実な初見の史料の検討から始まる。その史料は「金丸世主書状」である。その中の「免余御印判」という文言を「免除御印判」と読んで、上船の免除の印判を島津氏が発行した、つまり島津氏は琉球室町幕府間の仲介者として遣使の中止・再開に関与してきた、と読んできた。黒嶋氏は「余」が「除」であった痕跡はなく、これは「余に免じて御印判を」だしてもらった、と解するべきであると主張する。そしてこの史料は応仁の乱の影響か、「奉書」がないために島津領の港で抑留されたところ、代替手段として島津氏の「御印判」によって帰港できたことへの謝意を表していると、解釈する。そしてそこから、「奉書」が足利将軍の意を奉じた室町幕府発給の過書であった、と考える。島津氏の上位に足利将軍が位置していたことは明らかであり、島津氏に主軸をおいて解釈してきた従来の研究を批判する。
室町幕府が島津氏に琉球の「先例御船」の「来朝」を命じ、島津氏から琉球に伝達されて到着した船が「琉球文船」であり、これが「あや船」の初見であるが、あや船とは島津氏のためではなく、幕府のために派遣された船であった。
1480年は足利義尚が将軍としての内実を整えつつあった時期であるが、その時期に琉球の来朝を命じている。1458年には足利義政の、1466年には足利義視の、それぞれ代始めの儀礼が行われ、それに合わせるように琉球使節は上京している。その時の儀礼は庭に敷いた筵に着座した使節に将軍が面会するという、琉球の日本への服属儀礼を可視的に表現した対面作法であり、琉球使節は将軍権力を荘厳するまたとない存在であった。
義政・義視・義尚・義澄・義稙の各将軍がその代始めの時期に琉球船の来朝を企図していたことからみて、あや船とは室町幕府将軍の代始めのを祝賀する琉球船だった、と考えられる、と黒嶋氏は指摘する。