「永正五年『印判』史料をめぐって」を読む

画像は新納忠元。序カードの中の序カードで、メイン鯖にはいない。くじで出ても、空き地攻撃に参加してレベル3になれば、合成の素材として直ちに消える。

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1508年、薩摩守島津忠昌は新納氏らの反抗の中で自害してしまう。ちなみに忠元は忠昌に反抗した新納氏の庶流である。もっとも新納忠元が仕えた島津貴久も島津庶流である。
従来の研究において島津氏印判制の大きな根拠となったのが永正五年(1508年)の「島津忠治カ書状写」(史料11)という文書である。奥州家から琉球国王に印判確認の励行を明記した唯一の史料であり、これを根拠に、従来は1508年段階で島津氏印判制が存在するとしてきた。黒嶋氏はこの史料について、他の徴証がないままに永正期の島津氏印判制を想定することはできない、とする。
同日付の「島津忠治書状写」(史料12)というものもあり、これまでは史料11には言及されるが、史料12の存在は言及されなかったが、黒嶋氏は史料12こそが家督継承直後の忠治の書状にふさわしく、史料11は忠昌が生存中に用意していた返書案である可能性が高いとしている。従って差出人を改竄した可能性が高い、とする。
さらにこの史料にはいくつかの疑問点がある、とする。
疑問点①この史料は原文書が見つかっておらず、どこに伝来した書物から採録したのか。
疑問点②採録時点で二つとも「忠治」と署名されていたと考えられるが、なぜ二通とも「忠治」文書として書写されているのか。
疑問点③外交文書である史料11は、「書」様式を踏まえた文体であるが、印判制の励行を求めた部分のみは和様漢文になっていて、さらに進物のあとに依頼内容が書かれるのは異例であるが、なぜそのような文章構成となっているのか。
疑問点④1570年に出された「島津氏老中連署状案」(史料14)において印判制の遵守の要求がなされているが、それが史料11の依頼部分と類似している。文言は差異があるが、内容は「島津氏印判を持たない船の資財は琉球の公用に没収して良い」という点は一致している。当時印判制に関する島津氏老中の見解もバラバラで、印判制自体も連続したものではなく、また守護奥州家の文書・記録は当時は日向にあって、島津義久の手元にはなかった。にも関わらず、史料11と史料14はなぜそこまで類似しているのか。
黒嶋氏はこれらの疑問点がクリアされない限り、史料11を1508年のものとし、そこから島津忠昌の印判制導入を論じることはできない、とする。
そして「おわりにー原史料の魅力」というまとめをつけている。はじめの「編纂物の魔力」と「原史料の魅力」の対応から、編纂物の限界を指摘している。
結論として黒嶋氏は、島津守護家は琉球ー日本関係では間接的な仲介者とみるべきであり、室町幕府体制下にある島津氏が地震の代替わりのためのあや船派遣を実現させた痕跡も、自身の印判で琉球渡航者管理を実施していた痕跡もない、と指摘し、琉球ー日本関係を政治史的に理解する時には島津氏よりも、室町幕府に主軸をおくべきと主張する。