原文書の魅力

前回の引付頭人奉書に関して、久世庄の「遵行」についてせいすいえいこ氏は「南朝京都進軍・北朝天皇拉致という大事件の直前、京都で事実上の執行者であったのは、海部氏に見える」(http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/dainipponnsiryou.gennbunn.nukigaki.html)とした上で、「それが小川信著『足利一門守護発展史の研究』では、人事の扱いが逆になっている」として、「徳島県海陽町の歴史については、必要以上に削除されたり、あるいは否定的評価が広がるなど、問題が多い」(http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/rekisi.ime-jiup.html)ことの削除された事例としている。その上で久世庄の東寺に対する権益侵害に対する遵行使節(強制執行)の担当者である海部と広田の関係について、海部を先に書かなかった小川信に対して以下のように批判する。

これが、歴史学の方法として一般化するようなことになったら、歴史認識も社会認識も混乱するだろうに。このような論理の混乱を受容する歴史学というものが、どうにもむずがゆく感じられる。(http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/hanesitaronnbunn.html)

実際に広田と海部の関係はどうだったのだろう。せいすいえいこ氏の主張通りに広田よりも海部は上だったのだろうかせいすいえいこ氏の論拠はhttp://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/dainipponnsiryou.gennbunn.nukigaki.htmlに現れているように、『大日本史料』の史料排列である。果たして『大日本史料』の配列の順序は海部が広田の上席にあったことを証明するのだろうか。そしてそれを無視した小川信の議論は不当に海部を貶めるものだったのだろうか。
結論から言うと、海部と広田のどちらが上位かはにわかには断定できない。
大日本史料』が排列を海部但馬守宛の文書を先にしたのは東寺百合文書ミ函27号文書

(http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=14871)において海部但馬守宛文書が前に出ていることを踏まえているように思われる。
しかし正文を見ると、ホ函26号が広田宛、同27号が海部宛と逆転する。つまり文書の排列から海部と広田の関係を云々することはできない。従って「論理の混乱を受容する歴史学」というのは言いがかりである。


自分の思い込みに合わせて史料や研究史を検討することには慎重でありたい。