権益確保も命懸け

「濫妨」は東寺の権益侵害であり、「使節」の任務は侵害された東寺の権益の回復であった。ではそこに投入された使節たちは徴税業務のような事務官僚だったのか。実はそうではない。中世においては権益確保も命がけだった。
それを示す文書。『東寺百合文書』ヰ函40号文書で「藤原直重請文案」。

http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=8698&p=2
釈文。

東寺雑掌申以山城国久世庄地頭
職、東久世庄公文左衛門四郎、大藪庄公文
右衛門尉等、今月廿二日夜打入当庄
公文七郎仲貞住宅、致濫妨狼籍由事
可退彼濫妨人等之由、就被仰出之間
廿八日関部但馬孫二郎左衛門尉相共莅彼
所欲退濫妨人等之処、彼悪党人等
構公文仲貞住宅於城郭、率大勢如令
申者、非吉野御沙汰者不可叙用之由令返退
欲及合戦之間、不及退之候、此条若偽申者
仏神御罰可罷蒙候、以此旨可有御披露候
哉、恐惶謹言
請文
正平六年十一月廿九日 藤原直重
在裏判

読み下し。

東寺雑掌申す山城国久世庄地頭職、東久世庄公文左衛門四郎、大藪庄公文右衛門尉等を以って、今月廿二日夜当庄公文七郎仲貞住宅に打ち入り、濫妨狼籍を致すの由の事、彼濫妨人等を退けるべき之由、就いてはこれを仰せ出されるの間、廿八日関部但馬孫二郎左衛門尉と相共に彼所に莅み、濫妨人等を退けんと欲す之処、彼悪党人等公文仲貞住宅に城郭を構え、大勢率い申さしむるが如くんば、吉野の御沙汰にあらざれば、叙用すべからず之由、返退せしめ、合戦に及ばんと欲す之間、これを退けるに及ばず候、此条若し偽はり申さば、仏神の御罰を罷り蒙るべく候、此旨を以って御披露あるべく候哉、恐惶謹言

東寺の任命した上久世庄の公文仲貞の住宅に隣接する東久世庄の公文と大藪庄の公文が討ち入って東寺の権益を侵害したため、その排除に乗り出す必要があった。「城郭を構え」という文言は「路次を切り塞ぎ」などと並んで一つのテンプレとなっているので、文字通りに解釈すべきかどうかはともかく、東寺の権益を確保すべき公文の住宅が占拠される事態は深刻であると言わざるを得ない。東寺の訴えを受けて幕府が乗り出したのだが、相手方は南朝の命令でなければ受け入れられないと主張する。文書の年号を見れば南朝年号の「正平」を使用しているので、当時足利義詮南朝に下って以降のことである。義詮以下の幕府関係者が舐められていることがうかがえる。
それよりも興味深いのはヰ函39号文書

(http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=8697&p=2)には関部左衛門尉の文書があるが、そこには「広田出羽助五郎と相共に」とあることから、広田出羽助五郎の実名が藤原直重であることが分かる。広田直重は後に海部とともにホ函26・27号文書に出てくる人物ではないかと思う。
その意味では海部刀が実戦に投入された可能性はある。
追記
注意を要する点を一つ。藤原直重は戦闘も辞さず、という相手方の姿勢に押されて遵行ができなくなっている。そしてそのことを報告しているわけであるから、幕府側の意識としても戦闘を要求しているわけではない。