使節も大変

もう一度ヰ函40号。

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藤原直重が「相手方が合戦しようとしている」として遵行不能を報告する時に、わざわざ「仏神」の罰を持ち出して自身が嘘を言っていないことを主張しようというのか。その背景には室町幕府の寺社本所領保護政策との関連がある。

一 寺社国衙領并領家職事
動乱之間、諸国大将守護人、就便宜預置軍勢云々。於今者、可沙汰居雑掌之旨、被定下之処、不遵行之由有其訴。甚招罪過歟。所詮任御教書奉書并引付施行、不日悉付渡下地、云預人交名、云所領在所、可注進之。若尚令遅引者、於守護人者改易所職、至大将并軍兵者、或被処其咎、或雖勲功、不可宛行恩賞

『中世法制史料集』第二巻所収の室町幕府追加法(1)のこの法令は建武四年十月七日付である。室町幕府が発足して間もない時期に出された法令においてすでに使節遵行の不履行が問題になっている。 その罰則は守護は解任、それ以外は恩賞剥奪だったりした。
それでも止まなかったのでこの法令は何度も出されている。例えば康永三年七月八日付の追加法(14)では次のような条文がある。

一 諸国守護人以下使節緩怠事
或可沙汰付下地之旨、被仰下、或可催論人之由、触遣之処、遵行遅引之条、甚以不可然、向後於難渋使者者、須被収公所帯矣。

また追加法(33)には「守護人非法条々」として「得論人当知行語、下地遵行難渋事」が挙げられている。下地遵行の遅延の原因として守護と被告の談合があることが指摘されている。この時期頻発する訴訟は、寺社本所領における寺社本所の権益を武士が侵害するケースが多かった。守護が被告である武士の関係者であることは多かったのだろう。また武士にとっては寺社本所領の存在が兵糧調達の障害になることが多かった。
観応二年六月十三日に出された追加法(55)では以下のような条文がある。

使節事、守御教書日限、沙汰付下地、可執取請取状、令遅怠者、於守護人者、改補其職、至御家人者、可被分召所領三分一矣

ここでは下地の沙汰付が遅れた場合、守護の解任や所領の三分の一の没収などが定められていた。
守護使節も大変である。暴力団まがいの武士(ということを言うと、要注意とされかねないが*1w)を相手に寺社本所の権益を守らなければならないし、遅れることすら許されなかったのである。藤原直重も必死だったはずだ。