網走の応永板碑に関係するかもしれないこと3

網走の応永板碑との関係がどんどんなくなっているような気がするが、次は村上雅則、もとい村上政儀。「ネットde真実」ばりにネット上の情報を拾うと、政儀は信濃源氏の村上氏で、1440年3月の戦乱で信濃を追い出され、秋田に向かったが、暴風によって厚沢部まで流され、そこに土着した、という人物らしい。評判の芳しくない人物で、人柱にアイヌの女性を甘言を以って強制連行をして海に沈めたためにアイヌの恨みを買ったという。松前の守護の相原季胤の補佐役であったが、アイヌに攻められ、大沼に身を投げた、とされている。松前を攻撃したアイヌの背後に上ノ国の蠣崎氏がいた可能性が高いので、その噂の出処も松前氏だろうとは思う。
で、1440年3月の戦乱だが、これは結城合戦だろう。足利持氏が滅ぼされた二年後、下総結城氏朝が持氏の遺児を擁立して室町幕府に反旗を翻した事件である。この合戦では永享の乱に引き続き信濃守護の小笠原政康に出陣が命じられているが、永享の乱では小笠原氏に抵抗した村上氏が攻撃されている。ということは、結城合戦でも村上氏と小笠原氏の戦闘があったとしても不思議ではない。それで追討を受けて敗れた村上政儀が北海道へ逃れた、というのも十分あり得る話である。
問題は秋田に向かったが、暴風で厚沢部まで流された、というところである。というのは、結城合戦で敗れた、というのであれば政儀は持氏方ということになる。持氏方の人間が日本海ルートを使えたとは思えない。信濃から使える港と言えば越中か越後だが、両方とも室町幕府の確固とした支配下にある。足利義教に楯突いて流浪の身となった政儀を受け入れてくれる条件にはない。持氏の強固な支持基盤は下総結城氏や、持氏の母の実家の武蔵一色氏だろう。東京湾沿岸が持氏の強固な支持基盤だったのである。結城合戦の緒戦で敗北した政儀は下総にやってきて下総に源頼朝以来の由緒を誇る千葉氏の庶流の粟飯原(相原)氏を頼ったのではないだろうか。上杉憲実らによる持氏残敵掃討戦に敗北した粟飯原政胤・村上政儀は奥州を経て北海道へ渡る。信濃源氏の村上氏が相原氏の下風に立つ理由も以上のいきさつから説明できよう。