網走の応永板碑に関係するかもしれないこと4

題名を「応永板碑に関係しないだろうこと」にした方がいいのではないか、と思うが、引き続き北海道に渡った武士団について見ていく。今回は武田信広。信広と言えば松前藩のクロニクルである『新羅之記録』によれば若狭武田氏なのだが、それを信じない人は江戸時代から普通にいたようで、若狭の商人だとかいろいろ言われている。近年(と言っても十年以上前だが)、和氣俊行氏が「松前氏祖武田信広の出自について」(『法政大学 国際日本学』1、2003年)において若狭の武田という点を考え、応永13年まで若狭小守護代武田氏としている。非常に興味深い指摘であるが、その後の議論が深まっていないように思われる。北海道中世史が停滞しているそうなので、やむを得ないところではあるが。基本的には『新羅之記録』の武田信広関係の記述はほぼ信用できない、と考えられているし、それはその通りと思うが、一つ興味深い記述がある。それは宝徳三年三月二十八日に若狭を出た後に「下東関足利少時住」という記事である。享徳元年には田名部に入った、とある。足利の中身がはっきりしないが『松前家記』には「関東ニ出奔シ足利氏ニ投ス」という記述がある。信広は持氏の遺児の成氏の関係者だったのではないだろうか。ここで和氣氏議論を考慮すると、没落した若狭小守護代武田氏の子孫が関東公方に投じていた可能性が考えられる。
大雑把に信広が関東入りしたとされる享徳年間に至る政治情勢を追いかけると、持氏が永享の乱で滅ぼされ、持氏の叔父で持氏と対抗して義教に従っていた篠川公方の足利満直が持氏派の石川氏に討たれる。さらに持氏の遺児を擁立した結城合戦が起こり、義教は鎌倉公方に自らの子を派遣する方針だったようだが、義教自身が嘉吉の乱で殺された。義教死後は管領鎌倉公方に近い畠山持国に代わり、持氏の遺児である成氏が持国の支援を受けて鎌倉公方に就任した。その関係が変わるのが享徳元年に管領細川勝元が就任した時である。勝元は成氏に対して上杉憲忠を通じての交渉を要求した。享徳三年には成氏が憲忠を殺害したことを契機に三十年にわたる享徳の乱が起きる。信広が関東入りしたのは、こういう複雑な情勢下においてである。そこで成氏関係者となるということの意味を考えなければならない。
次に信広が北海道に渡るタイミングであるが、1456年という時期に南部氏のもとでは蠣崎蔵人の乱というのが起こっている。これが南部氏の歴史書にあるような蠣崎蔵人という南部氏の家来風情の起こした事件などではないことは、この事件に関連して大崎教兼の官途推挙状が出されていることからも明白である。ちなみにWikipedia「蠣崎蔵人の乱」では大崎一族の山科教兼としているが過ちである。南部氏は大崎教兼を同時代の京都の公家である山科教兼と読み替えたのである(『奥州探題大崎氏』高志書院、2002年所収の伊藤喜良氏「大崎教兼の時代」参照)。また黒嶋敏氏はこれを大崎氏の全盛期の証明とするが、官途推挙状の数だけでは決められないことは間もなく公刊予定の黒嶋敏氏の著作の書評において論じている。
家永遵嗣氏は「一五世紀の室町幕府と日本列島の「辺境」」において南部氏が享徳の乱に動員されない理由を蠣崎蔵人の乱やコシャマイン戦争などの津軽海峡域が戦乱に陥ったことに求めているが、さらに言えば、蠣崎蔵人の乱とされている事件が室町公方に対する反乱であり、それを鎮圧することが享徳の乱に対する室町殿足利義政による動員の一環である可能性も考えられるであろう。
コシャマイン戦争の勝者が武田信広と下国家政であることは誰しも異存がないだろう。では敗者は誰だろうか。コシャマインか?コシャマインに擬人化されたアイヌか?そうではあるまい。これで一番割を食ったのは、下国家政如きに取って代わられた下国定季しかいない。中村和之氏が『週刊新発見!日本の歴史』24の中の「コシャマイン戦争」において指摘するように定季の拠る松前大館が陥落するためには信広や蠣崎季繁のいる上ノ国と家政のいる茂別を突破することが必要なのであり、穿った見方をすれば定季を敗北せしめたアイヌは家政や季繁らと気脈を通じていたのかもしれない。
ともあれ信広も鎌倉公方ゆかりの人物で、享徳の乱に関与して室町日本から排除された人間であるかもしれない。そしてコシャマイン戦争は、享徳の乱で室町日本から脱落した勢力が大量に入ってきてバランスが崩れ、引き起こされた動乱だったかもしれない。