網走の応永板碑に関係するかもしれないこと5

網走の板碑だが、それを立てた人物、勢力の姿はなかなか見えてこない。
それを考えるために館主の中で渡道の経緯が明確な人物を挙げると、足利持氏関係の人間が目に付く。結城氏の乱に関与したとしか考えられない村上政儀や相原政胤、享徳の乱との関わりがありそうな武田信広、河野政通、安東政季などである。政胤は享徳の乱にも関与していそうだ。享徳の乱足利成氏に同心した勢力が大量に道南に流入してきたことがコシャマイン戦争に繋がってくるのではないか、と考えたくなってくる。少なくとも「和人」としてこの時期の道南地区の和人勢力を一括して考えるのは危険だろう。
では網走に板碑を造立した人々はどういう人々だったのだろうか。それを考えるための鍵となるのがラッコの皮であり、それが明示的に現れたはじめての日本側の史料と言われる安藤陸奥守宛室町殿御内書である。