応永三十年五月七日付将軍家御教書

本文

東大寺八幡宮摂津国兵庫関努代官所料事。先度被免除之処、自地頭領家、重覃其責云々。所詮向後於寺家直務之時者、停止彼所料、全領知、御願以下同島修固等之由、所被仰下也。仍執達如件。
応永三十年五月七日 沙弥判
当寺衆徒中

これはしばしば「室町将軍家御教書」と呼ばれる。一方、将軍家が出す年月日付きの直状形式のものを「将軍家御判御教書」という。この二つは似て非なるものである。「御判御教書」に据えられる花押は将軍家のものであるが、奉書形式の「将軍家御教書」に据えられる花押は管領のものである。ここにおける「沙弥」は管領畠山満家のことである。だから「管領奉書」という言い方をする場合もある。
それはともかく、管領奉書が出されるのは将軍が政務を取れない場合、もしくは将軍の寄進状などが出され、それに添えられる場合である。後者の場合を「管領施行状」というから、「管領奉書」のバリエーションとして「管領施行状」と「将軍家御教書」がある、と考えた方がいいのかもしれないが、私的な意見を言えば、少し紛らわしい。
これは『後鑑』から採ってきたが、『後鑑』には足利義持の文書が載せられていないから、これは「将軍家御教書」と考える余地がある。
では将軍は何をしていたのか。応永三十年五月七日段階での将軍は足利義量、室町殿と呼称されているのは足利義持である。義持は出家したばかりで、五月七日段階では等持寺八講に参加しており、政務に参加できる状況ではなかったようだ。
では足利義量は何をしていたのだろう。まだ若年で、判始も行なっていない段階では義量は政務に参加できなかったのであろう。だから管領畠山満家が奉ずる将軍家御教書が出されたのではないだろうか。
何が言いたいか、と言えば、同年四月七日付の安藤陸奥守宛将軍家御内書の発給主体を足利義量にするのはやめよう、ということである。