足利義量発給文書の復元

『後鑑』所収の足利義量発給御内書(?)には手が加えられている蓋然性が高い。

立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件
応永卅年十二月廿八日 義量御判
本国寺院主上人御房

前回書いたことだが、このような巻数お礼のような時限的効力しか期待されない文書には普通年号を付けない。
こういうと「すわ、捏造か」と言いたくなるが、自分の価値観に合わない史料を全て偽作とする極端なことをすると普通は変な人、とされるだけである。ちなみに私の妻の祖母(1906年生まれ)は変体仮名を使用していた。理由は簡単である。寺で読み書きの基礎を習っていたのだ。私のように都会で世代を重ねて来たものからすれば、学校教育と異なる文字を書くことはあまりないが、学校以外の文字習得回路が存在すればその限りではない。兵士の書体から、史料を捏造呼ばわりすると、普通は相手にされない。それだけである。
話を戻すと、これが写であり、しかもその写がいい加減であることが混乱の原因なのだ。年号は付年号なのであろう。つまりは「十二月廿八日」の上の部分に付箋か書き込みで小さく「応永卅年」と書いてあったのではないだろうか。
次に「義量御判」だが、正文では当然花押が据えられているだけだったろう。それを後世の誰かが義量の花押と判断して「義量御判」と注記したのだろう。ところで義量の花押は現物が、もしくはその正確な模写が残っているのだろうか。寡聞にして知らない。ではなぜこの花押が義量の花押と分かったのだろう。考えられるのは、当時将軍が義量であったこと、それだけではないだろうか。花押の主は義量であったかもしれない。だがそうではないかもしれない。
以上を踏まえて元の形を推定しておく。

立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件
十二月廿八日 (花押)
本国寺院主上人御房