足利義量の評定始(?)

『後鑑』足利義量将軍記をみていると、「花営三代記」を引いて「御評定始」と綱文が立ててある。「有御評定始。管領出仕。頭人三人出仕。摂津左馬助満親。波多野因幡道元昌。問注所刑部少輔康雄。」ということで、これはさすがに「義量を消せ」と思っている私でも義量の御評定始と思うわな。翌日には従四位下に叙せられているわけだし。
ところが、同じ「花営三代記」によると前日の義量は赤松満祐邸への御成で「御方依御違例、無御対面」とある。二月五日に「モカサノ違例」とあって、御湯始が行われているから、その頃には天然痘も治癒したのだろう。
結論。この「御評定始」は義量ではなく、義持のもの。