満斉准后日記永享三年四月十日条口語訳

十日 晴。早朝に京都に出る。今日は室町殿月例の連歌である。頭役発句は聖護院准后(満意)。
管領(斯波義淳)より使者飯尾美作が来た。「仰せ出された旨については関東の使者に仰せつけましょう。但し畠山(満家)、山名(時煕)らはご対面のことについて分けて列参し、申し入れるべき点について談合いたしております。そのことをご披露していただけるのであれば、仰せ出された旨を早々に使者に仰せつけましょう。おそらく畠山・山名両名より委細は申し入れられるでしょう」ということであった。私の回答。「畠山・山名両名より申されれば、私の意向として追って申しましょう」ということを申した。
畠山より使者遊佐河内、斎藤因幡両人、山名使者カキ屋(垣屋)一人がまいって申す内容は、「管領より相談を受けたのは、『関東の御罰状のことを、使者に仰せつけるべきである、ということはよろしくないので、今までその儀はなかった。しかし上意は非常に堅いので、この上は使者に仰せつけなければならないでしょう。但し面々(大名たち)が一致して御所に参って使者にご対面のことを平に(お願いします)と申し入れよう。賛同いただけるのであれば早々に使者に仰せつけましょう』ということでした。この条は只今はいささか性急であり、まず仰せ出された旨を使者に仰せつけ、その後の話であると存じております。ただいつものメンバーは二度三度も参上してお願いすることもあるでしょう。御意を承りたく思います」ということであった。私の回答。「只今管領の使者が申していたこともおおむね同じである。所詮この返事は私からは申しがたい。それに迷惑であります。管領の申すところがいい加減であると思います。」といったところ、遊佐が申すには、「入道(満家)の申し入れたいこともおっしゃった通りであります。まず仰せ出されたことを使者に仰せつけた後に(ご対面の)事を行いなさい、と申し入れた」ということであった。山名の使者の申状も同じであった。私の回答。「私の意見は皆さんにご理解いただけた以上は、これ以上細かい話をするには及びません。管領へご両人(畠山・山名)より申されるべきでしょう。この題目については私としては申し上げにくいし、迷惑であります。なぜかといえば、面々が申し入れられた題目は(義教に)取り次ぐべきで、上意の内容は使者に申し付けましょう、ではまったく申しにくいことである、ということを仰せられるべきではないか」といった。遊佐以下は「尤もです」ということを申して帰って行った。
その後連歌に参った。まず一人で御前に参れ、とのことを仰せられたので参上した。ご対面。「体調がまだもどらないので、今日の連歌は出席しないだろう」ということであった。次に関東罰状のこと、「管領がまだ使者に申し付けていないのか、遅れかたが尋常ではない」ということを仰せられた。私が申し上げたことは「このことは、本日は吉日ですので使者に仰せつけるだろうということを今朝使者を通じて管領から申し入れた」ということを申し上げた。宇都宮藤鶴のことは重ねて厳密に仰せ出された。その後連歌。摂政(二条持基)、聖護院、実相院(義運)、山名、赤松(満祐)らが参った。公方様の御出はなかった。脇句ばかりが出された。
十一日 晴。管領より使者二宮越中、飯尾美作が参った。飯尾肥前守を召して、管領よりの言い分を飯尾肥前は一紙に注した。これを以て披露させるべき儀である。その言い分は「関東御罰状のこと、仰せ出された内容を二階堂信濃守に仰せつけたところ、今回は京都と関東の和平の使者として上洛しただけです。そうは言っても仰せ下されたことでありますので、早々に関東(足利持氏)に申し入れましょう」ということであった。