満斉准后日記口語訳

永享三年四月十一日条続き
この(管領の)言い分を(義教に)申し入れたところ、以前仰せ出された那須(氏資)、佐竹(山入佑義)、白川(白河結城氏朝)、宇都宮藤鶴(等綱)などの事、一人でも罰状に漏れていることがあるならば、使節との対面はかなわないということを重ねて堅く管領(斯波義淳)に仰せ付けるように、ということを仰せになられた。退出の後、赤松播磨守(満雅)を通じて重ねてこのことを仰せ出された。なおなお井取りでも罰状に漏れることがあれば、重ねてまた仰せ下されるようにすることはよろしくないので、ただいま厳密に申し付けるべきことを管領に仰すべきである、ということであった。
その後また御書を通じて同じことを仰せ出された。御書の死者は与阿であった。ご返事を申し入れた。よって飯尾肥前守を呼び、仰せの条々を一紙に載せ、管領の使者二宮越中、飯尾美作に申し付けた。仰せの詞の条数は一、那須・佐竹・白河の事は今後征伐を停止されるべきである。一、宇都宮藤鶴の事は元の通りに所領の権利を保証すること。一、佐々河(篠川公方足利満直)の事、特別に室町公方が扶持しているので、そのことを配慮すること。これらの条々が一つでも漏れている御罰状では使節に対面することはかなわない、ということであった。
管領より飯尾美作を通じてご返事があった。条々は畏くも仰せ下されたので、関東の使者に申し付けましょう、ということであった。すでに夜なので、今夜は(義教に)披露はできない。管領より赤松播磨守を通じて披露するように経祐法眼を通じて申し遣わした。重ねて経祐法眼を通じて赤松播磨守に申し遣わしたところ、管領よりのご返事を披露なさるべきだ、ということを(赤松播磨守は)申したが、今夜は深夜なので(醍醐)寺に入るのは不可能で、明日一日は例日なので一日逗留するから、明後日参上して申し入れるので、披露することはできない、ということを申し遣わした。倫西堂が(鎌倉)五山の長老を公文に据えることについて申し入れたので内々に(正親町)三条中将(実雅)を通じて申したところ、相違なく仰せつけるべきである、ということを今日仰せ出された。そちらでうまく調整して申し入れよ、ということを仰せ出されたので、倫西堂に円覚寺の事を相談し、申し入れた。
十三日、晴れ、早朝に室町殿に参る。一昨日仰せ出された条々、飯尾肥前を呼び寄せ、仰せの詞を一紙に注した。管領使者二宮越中入道、飯尾美作両人を呼んで仰せ含めたところ、畏くも仰せ下されるこの三ヶ条、一、那須・佐竹・白川は今後退治することはない事、一、宇都宮藤鶴丸は元の通りに所領をもどす事、一、佐々川の事、京都との関係は他とは異なるということを踏まえる事、以上三ヶ条を御罰状に載せ、早々に申すべきである、ということを関東の使者二階堂に仰せつけましょう、ということを飯尾美作を通じて申し入れたことを披露した。飯尾肥前が書いた仰せ詞一紙を御前に置いた。日野一品入道(有光)御免の事、条々を(日野)秀光卿に仰せられた内容を具に申し遣わした。よって畏み申し入れる旨を西向(日野資教後室、有光・秀光の継母)の状を通じて申したので、(有光は)許された。倫西堂が円覚寺の公文を拝領した。祝着であるということを来て申した。今日から醍醐寺に入った。

五月
十二日、雨、畠山(満家)、山名(時熙)両人方より各々両使を通じて申してきた旨がある。「関東の使節がまだ対面できておらず、数日むなしく在京しており、進物の馬以下小宿にこれを置くというのは非常に失礼なことであり、いろいろ嘆き申し入れているのも気の毒である。ただこの問題は依然申していたことがあるので簡単ではない。所詮始終天下の様子をどのように思っていらっしゃるのか、ことに御遠慮(遠き慮り)の御事があるべきことが第一である。両人大名は内々宿老分としておりますが、このように考えていることが心の奥に置いているのは、まったく個人的なことではあります。