満済准后日記口語訳

この子細について話し合うか、上聞していただきたい。御作善のためにお寺に入っていらっしゃる身にはこのような言い分は狼藉の至り、いうべき言葉もないでしょうが、天下の重大事で見過ごすことはできないので、平に京都においでくださいますようお願いいたします。そのためにまずは内々に申し上げるのでございます、ということであった。私の返答は、京都に出ることはみなさんより承ったことで、天下の重大事とあれば思案するには及ばない。いつでも京都に出ることはできます。それについて申し入れたい中身はおおむねどのようなものでしょうか。使節がもし知っている、あるいは推量できることがあらば、申し入れなさい、と申し付けた。
畠山両使遊佐河内守、斎藤因幡守、山名両使カキ屋、田キミ、これらが申す内容は、はっきりとはしないが、天下の騒動について、九州も土一揆と号して大内(盛見)はすでに九州に下った、大友(持直)、菊池(持朝)、少弐(満貞)らは内々では土一揆に同心しているといううわさが入っております。事態は難しくなっております。しかしながら公方から両上使長老が下向するので、おそらく日をおかずに解決するでしょう。しかし、また関東のこと、御仲たがいのままであれば、国々の諸人の振る舞いも土一揆に近づき、めちゃくちゃな振る舞いも出てきては、大変難儀となる時期であります。平和裏に収まるように御計らいをすることがよいかと存じます、ということであった。
私の答え。このおっしゃることは天下万民の安穏の基であり、感心するところです。結論としてたびたび(義教が)仰せ出された内容を、管領(斯波義淳)より関東の使者に申し付けられたのかが不明で、お返事を申し入れていない。したがってこのことについては上意はわかりやすいことではありませんか。両人(山名・畠山)より管領にお尋ねになって、それと並べて申し入れられるべきであるということの順番がもっともよろしいと存じます、ということを申した。よって使者は帰って行った。
十八日 雨。大内使者訥西堂は今日の明け方に出発するだろうということを(大内の雑掌の)吉田より申し入れたので(筑前)国へ返事をした、文章はさしたることではなかったが、訥西堂が京にやってきて国の様子を物語ってくれたので喜んだ。次にこの門跡(満済)より使者を大内方に下し遣わすだろうことを申したところ、この西堂は頻りに止めたのでやめることにした。次に大友方より上ってきた使者の西堂は、この門跡より内々申しつぐこと、ひとえに和睦によって国の平和を回復することを申し入れる旨など、詳細を西堂に申し入れることなどを申し遣わすだけである。
十九日 大雨。午の初め(午前十一時ごろ)より晴れた。管領より甲斐(将久)、飯尾美作守がやってきた。先ほど仰せ出された関東の罰条のことなどを関東の使者二階堂(盛秀)に申し付けたところ、関東に伝達するのは難しいと同じことを繰り返すので、困っている、ということであった。私は両人に尋ねた。先ほど申し下すべきとした、関東使節が承諾した申し入れ分は、今後関東が御野心をもってはならない、という起請文ではなかったのですか、それはすでに申し下されたのでしょうか、と。両人の返答は、申し下したかどうかははっきりしません。また尋ねましょう、とのことであった。