対訳『椿葉記』7

承久以来は、武家よりはからひ申す世に成ぬれば、いかにも申沙汰せらるべきよしを再三仰らる。御理運勿論とは存知申ながら、内裏より別して頼之朝臣をたのみ仰らるゝによりて、所詮いづかたの御事をもいろゐ申ましき由を申て、つゐに一の御子御譲位ありぬ。武家ひとへに贔屓申うへは力及ばざる次第なり。さる程に、本院・新院たちまちに御中悪く成て、近習の臣も心々に奉公引わかる。兄弟の御中にも御位のあらそひは昔よりある事なれば、力なき事也。かくて応安七年正月新院は崩御なりぬ。

頼之朝臣-細川頼之
一の御子-後円融院
新院-後光厳院
本院-崇光院

承久以来、幕府より皇位を決定する世になったので、どのようにも幕府が決定すべきだ、と崇光院は仰せられた。幕府では御理運の通りに正嫡である崇光院皇子栄仁親王の即位が当然であると考えていたが、後光厳院細川頼之を深く信頼していらっしゃったので、、幕府もどこからの申し出についても介入せず、後光厳院の決定に従うことを申し出たので、第一皇子の緒仁親王(後円融院)に譲位があった。幕府がひたすら肩入れしたのではどうしようもなかった。そのうちに崇光院と後光厳院はたちまちに御仲が悪くなって、近臣もそれぞれに別れてしまった。兄弟で皇位を争うことは昔よりあったので、どうしようもなかった。こうして応安七年正月後光厳院崩御した。