対訳『椿葉記』8

さて禁裏は御在位十二年ましまして、永徳二年四月御譲位ありしかども、今度は伏見殿より御微望を出さる〃に及ばねば、あらそふ方なく一の御子御位につきぬ。新院は御治世なれども、天下の事は大樹執行はせ給。その比ふしみ殿へ准后常に御参ありていと時めき給ふ。陽禄門院三十三とせの御法事、大光明寺にて転経供養などいと厳重に申沙汰ありて、はなやかなる御事どもありしかども、御運の時刻や至らざりけむ、御本望は遂ずしてやみぬ。さて明徳四年四月新院は崩御成ぬ。

禁裏、新院-後円融院
伏見殿-崇光院
一の御子-後小松院
大樹-大樹は将軍の唐名で、足利義満
准后-義満
陽禄門院-光厳院後宮で崇光院、後光厳院の生母
いと時めき給ふ-村田正志氏は「義満が権勢をかがやかせたとの意」(35頁)とするが、陽禄門院三十三回忌を伏見の大光明寺で行ったことやとのつながりを考えれば、義満が足繁く通ったことで「時めき給」のは崇光院ではないかと思われる。崇光院流に皇位を渡さない代償として盛り立てようとしたのだろうか。

さて、禁裏は御在位十二年で、永禄二年四月に御譲位があったが、今度は伏見殿より望みを出さなかったので、問題なく一の御子が即位した。新院は治天の君であったが、天下の政務(天皇家の家長としての公務)は将軍が執行なさっていた。そのころ伏見殿へ准后(義満)が頻繁に御参していて、伏見殿も大変栄えた。陽禄門院三十三回忌を大光明寺で転経供養など厳かに挙行されて、華やかなこともあったが、御運の巡り合わせがなかったのか、t皇位継承の御本望は遂げられることはなかった。さて、明徳四年四月、新院は崩御なさった。