対訳『椿葉記』14

さて御所をさへあけられて、萩原殿へ移申さる。伏見殿をは准后の山荘になさるべしとて、人もなく、いたづらにをかる。さる程に同六年十一月大内左京大夫入道謀反おこして天下乱たる折ふし、伏見の御所をば返し申されて、其十二月に還御なりぬ。

大内左京大夫入道-大内義弘。応永の乱によって義満の山荘造営計画が頓挫した。義満は伏見宮家に二万疋(二億円相当)を献上している(『迎陽記』応永五年八月十三日条)。

さて御所をさえお空けになって萩原殿(右京区花園)へお移りになった。伏見殿を准后の山荘にしようとして、無人のまま放置された。そのうちに同六年十一月、大内左京大夫入道が謀反を起こして天下が乱れた時に、伏見の御所をお返しになって、十二月には還御がなった。