対訳『椿葉記』15

かくて二三年は伏見に御座ある程に、同八年七月四日の夜回録しぬ。累代の御記・文書・楽器ども、大略中半過は焼ぬ。あさましとも申計なし。過つる二月には内裏炎上しぬ。ふるき皇居どもうちつゝき焼ぬればいとあさまし。さて此よし准后へ申さるゝほどに、萩原殿は荒廃して又御座あるべきやうもなし。御修理せらるべき程とて、嵯峨の洪恩院〈小川禅尼山荘〉へ入申さる。一両年へて又有栖川なる所へ〈勘解由小路武衛山荘〉、うつし申されて、七八年は嵯峨にまします。

回録-火の神、転じて火事のこと。
小川禅尼-義満母の紀良子。
勘解由小路武衛-斯波義将
嵯峨にまします-村田氏はここを「さかにまします」としているが、貞成親王自筆本はいずれも「嵯峨にまします」としているのでそれに従った。

このような事情で二三年は伏見にいらっしゃるうちに、同八年七月四日の夜火災があった。累代の御記・文書・楽器どもほぼ過半数は焼けた。無念としか言いようがない。過ぎる二月には内裏も炎上していた。古い皇居が続いて焼けたので大変無念であった。さてこの事情を准后(足利義満)に申し入れられたので、萩原殿は荒廃して御座になることもできない。修理が終わるまでの間、嵯峨の洪恩院(小川禅尼山荘)へお入りになった。二年後、また有栖川という所(斯波義将山荘)へお移りになって、七八年は嵯峨にいらっしゃった。