対訳『椿葉記』20

いまはもとの御所もなし。御座あるべき所なくて故三位局〈杉殿と申〉里にて宝厳院と申比丘尼所になされたる所を、まづ御所になさる。狭少不思議なる草庵の、かりそめながらいまに御所にてあるなり。萩原殿をば前坊の御子に周高西堂と申人、公方へ所望申されて寺になし、徳光院と申也。

故三位局-崇光院典侍栄仁親王の生母、庭田資子。
前坊-花園院皇子で崇光院の皇太子であった直仁親王
狭少不思議云々-貞成親王の御所は永享7年に義教の努力で禁裏の近くに引っ越すまで伏見であった。もちろん後小松院存命中はできなかったことである。
公方-足利義持

今はもとの御所もない。御座あるべき場所もなくて故三位局の里で宝厳院という尼寺をまず御所になさった。非常に狭小な草庵が、かりそめながら今まで御所であるのだ。萩原殿は元皇太子の御子に周高西堂という人が公方に所望されて寺にして徳光院というのである。