対訳『椿葉記』21

さて内裏は、御治天卅年政務おぼしめすまゝにておりさせ給ふ。同十九年八月廿九日一の宮〈称光院〉に御位ゆづり申さる。御治世はもとのごとくにて、よろづ目出度わたらせ給。伏見殿には御老病なへなへとまします程に、始終御安堵の事を仙洞へ申さるゝとて、柯亭といふ名物の御笛をまいらせらる。この笛は天下の宝物にて、清暑堂の神宴、そのほか公宴厳重の時ならでは、おぼろげに出されぬ名物なり。御相伝ありて御秘蔵なれどもまいらせをかる。かひがひしく叡感ありて、室町院領御相伝にまかせて永代御管領あるべき由、院宣を進らる。

御治天卅年政務おぼしめすまゝ-後小松院は在位三十年。後円融院死後は親政を敷いていた。退位して院政を開始する。
一の宮-躬仁親王。後に実仁親王と改名する。粗暴な振る舞いを「身に弓あり」とした足利義持の申し入れによる。
老病なへなへ-栄仁親王が65歳になった応永二十二年頃から病気がちになった。
この笛-村田氏校注では「ふえ」となっているが、貞成親王自筆の草稿ではいずれも「笛」なのでそちらに従った。
清暑堂の神宴-節会の際に神楽を奏し宴を行う。清暑堂は舞楽殿の後方の堂。

さて内裏は在位三十年親政を行われ、退位なさった。同十九年八月二十九日一の宮に譲位なさった。引き続き院政が行われて全てめでたいことであった。伏見殿には老病で弱っていらっしゃたので、死後の所領の安堵の事を後小松院に申し出られる時に柯亭という名物の笛を進上なさった。この笛は天下の宝物で、清暑堂の神宴やその他の公の宴の改まった場所でなければ、軽々しく出されない名物である。崇光院より相伝し、秘蔵のもにではあったが、進上なさった。後小松院は大いに感動なさって、 室町院領を相伝の通りに無期限に所有するように院宣を出された。