対訳『椿葉記』22

かくて同廿三年十一月廿日親王つゐに薨給ふ。兼より遺書をあそばしをかれて、大光明寺に料所を寄られて、御塔頭をたてゝ大通院と御称号を申べき由申定をかる。さる程に一の宮〈治仁〉、御相続ありしに、いく程もなく次の年二月十二日俄に御隠ありしに、いとあへなくもあさまし。親王の御望も申さるゝに及ばず、殊に無念の御事也。御称号葆光院と定申。男子もましまさぬほどに、貞成思ひの外に相続申す。

親王-栄仁親王66歳。播磨国衙領別納から石見郷を大光明寺に寄付した。
治仁-栄仁親王の長子。『看聞日記』には没年を卅七とするが、当時貞成が四十六であることを考えると何かが間違っているのである。様々な憶測があるが、単純に四十七と間違えた、と考えるのがいいだろうと私も思う。治仁王が死去時貞成と二人っきりであったことも憶測を呼んだところで、伏見宮家に仕える「近臣のうち受けざるの輩」(『看聞日記』)が言い出したことのようである。貞成も慌てて後小松院に取りなしを依頼している。この「近臣」を放置したことについては横井清氏は「優柔不断さを物語る」としているが、むしろ事件が大規模になると「蓋をする」中世の人々の解決法であるように私には思われる。

そして同廿三年十一月廿日親王はついに薨去なさった。かねてより遺書をおつくりになって、大光明寺に料所を寄進なさって、塔頭を建てて大通院と名付けるように言い遺された。そのうちに一の宮治仁王が御相続したが、いく程もなく次の年二月十二日、俄かにお亡くなりになって、大変あえなくも残念なことであった。親王宣下の望みを出すこともできず、殊に無念のことである。御称号は葆光院と定めた。男子もいらっしゃらなかったので、貞成が思いもかけず相続した。