対訳『椿葉記』25

其四月に仙洞には宸筆の御八講をこなはる。これは後円融院卅三廻の御仏事にて執行はる。紺紙金泥の法華経、竹園門跡助筆申さる。貞成にも両巻〈第五巻、阿弥陀経〉かゝせらる。後記のためも無官にてはいかゞにて、親王宣下の事を望申。仙洞勅許子細なくて四月十六日宣下せらる。年来の本望達して自愛の処に、おなじ六月禁裏逆鱗の事ありて、御位おりさせ給はむなど様さまわづらはしくきこゆ。内府なだめ申さるゝ程に、仙洞より内々うけ給はる子細ありて、七月に出家を遂ぬ。不祥ながらも、いまは五そぢにあまれば、誠の道に入侍ること本望にてありき。且は御位の事に叡慮不審あれば、中々面目とや申べき。

竹園門跡-竹園は皇族のこと。この時の八講に助筆した門跡は仁和寺承道法親王妙法院の堯仁法親王、下河原宮道朝親王がいる。
禁裏逆鱗-称光天皇と後小松院の間で諍いがあり、その際に貞成の親王宣下の事が問題になった。村田氏は「上皇が当時称光院の後には親王をして皇位を継承せしめられようとの思召でゐられたことは殆ど疑ふ余地がない」としているが、年齢を考えれば、むしろ当時四歳であった彦仁王を考えていたのではないか、と考えられる(非実在大学の非実在卒業研究では指導される無断引用、しかも批判している、非実在大学では著作権法113条違反)。
内府-足利義持

その四月に仙洞には宸筆の御八講を行われた。これは後円融院三十三回忌の御仏事として行われた。紺紙金泥の法華経を皇族の門跡が助筆申し上げた。貞成も両巻書かせられた。後々のためにも無官ではいかがかとということで、親王宣下の望みを申し上げた。仙洞には勅許には何の問題もなく四月十六日宣下された。年来の本望を達して喜んでいたところに、同じ六月に禁裏が逆鱗の事があって、退位なさるなどいろいろややこしい話が聞こえてきた。内府がなだめ申すうちに、仙洞より内々に承る事情があって、七月に出家を遂げた。よくないことではあったが、今は五十代になっているので仏道に入るのも本望ではある。且つは皇位のことに疑いを挟まれるのは中々面目である、というべきである。