対訳『椿葉記』24

さて同卅年二月院の第二宮、これも俄に御隠あり。此宮は勧修寺中納言養育申て、かの家にわたらせ給。今度の儲君ときこえさせ給つるにいとあさまし。おなじ月に又将軍宰相中将義量〈勝定院息、号長徳院〉逝去せらる。うちつゞき公武の御歎もさこそとおしはからる。

院の第二宮-後小松院の第二皇子は小川宮。享年16歳。称光院の皇太子となるが、兄との関係の悪さ(称光院が可愛がっていた羊を強く所望し、しぶしぶ天皇が引き渡すと即日撲殺した)や奇行癖(妹をいきなり強姦しようとした)もあり、皇統の行方に暗雲が垂れ込めた頃の死去であったので様々な憶測を呼ぶこととなった。
勧修寺中納言-勧修寺経成。養育していた小川宮を毒殺した、と疑いをかけられる。足利義教武家伝奏を務め、公武の懸け橋、

さて同卅年二月、院の二の宮も俄にお亡くなりになった。この宮は勧修寺中納言が養育して、彼の家にいらっしゃった。今度の皇太子ということであっただけに痛恨事であった。同じ月にまた将軍宰相中将義量が逝去された。続く公武のお嘆きも相当であるとおしはかる。