鎌倉時代の「陸奥守」北条業時

北条業時は極楽寺北条重時の子。1241年に生まれ、1259年、19歳で弾正少弼を振り出しに左馬権頭、引付衆を経て1276年、36歳で評定衆、1277年には越後守、三番引付頭人駿河守に転じ、1281年一番引付頭人になり、1283年長らく空席であった連署の地位に座る。北条義政出奔以来、北条時宗連署も置かず、執権一人体制で弘安異国合戦(弘安の役)に対処していたのである。しかも外戚で一門の長老格の安達泰盛と、侍所所司で得宗政権の実務を担当する平頼綱との争いの中で、である。おそらく連署を置かなかった、というよりも、置けなかった、のではないだろうか。泰盛と頼綱の綱引きもあっただろうし、両者に配慮すれば、結局人材は限定され、時宗の晩年にいたってようやく連署が置かれるようになり、その連署極楽寺流の業時が就任したのは泰盛派が主導権を握ったことを示しているだろう。時宗死後の混乱の中で業時は泰盛から陸奥守を引き継ぎ、貞時の擁立や弘安徳政の遂行に尽力する。しかし霜月騒動で泰盛が誅殺され、金沢顕時(実時の嫡男)が配流となるが、業時は難を免れ、霜月騒動後の人材不足の中で嫡子の時兼も順調に出世する。1287年死没。彼の子孫は普音寺(普恩寺)家と呼ばれ、13代執権北条基時、最後の六波羅探題北方の北条仲時などがいる。引付衆を経て幕府の要職に就く、という赤橋家に次ぐ家格を保持した。