『碧山日録』寛正二年二月三十日条

住居を失うことは、基本的な生存条件を奪われることである。寛正の大飢饉の原因の一つは河内から大量の流民が京都に流れ込んできたことにある。京都は「有徳」の者の集まるところであり、そこにいけば何らかの「徳」が期待できるからである。実際最大の「有徳者」であるところの室町殿足利義政は100貫文の私財を拠出して願阿に救済施設を作らせた。しかしそこは一ヶ月限定であった。何があったのか。そもそも100貫文という小額で足りるのか。政治の無策がこの飢饉の原因となっている。当時の人々も義政や後花園天皇政治責任を厳しく問うた。そして一ヶ月が経過した。施設の撤去期限が来た。撤去の日の京都の惨状を示すのがこの史料である。
本文

晦日。辛丑。以事入京、自四条坊橋上見其上流、々屍無数、如塊石磊落、流水壅塞、其腐臭不可当也、東去西来、為之流涕寒心、或曰、自正月至是月、城中死者八万二千人也、余曰、以何知此乎、曰、城北有一僧、以小片木造八万四千率堵、一々置之於尸骸上、今余二千云、大概以此記焉也、雖城中、所不及見、又郭外原野溝壑之屍、不得置之云、願阿徹(撤)流民之屋、

読み下し

晦日、辛丑。事を以て入京す。四条坊の橋の上よりその上流を見れば、流るる屍は無数にして塊石の磊落するが如し。流水は壅塞し、その腐臭は当るべからざるなり。東に去りて西より来る。この為になみだを流し心を寒からしむ。或るもの曰く、正月よりこの月に至り、城中の死者は八万二千人なり。余曰く、何を以てこれを知るか。曰く、城北に一僧有り。小片木を以て八万四千の率堵を造り、一つ一つこれを尸骸の上に置く。今二千余ると云う。大概これを以て記せるなり。城中と雖も、見及ばざる所、又郭外の原野・溝壑の屍、これを置き得ずと云う。願阿、流民の屋を撤す。

人々の遺体で加茂川の流れもせき止められ、洛北の僧が数えた所8万2千の死者が出た、という。もっともそれはその僧が確認できただけのもので、洛中でも見及ばないところや洛外の遺体はそもそもカウントされていない。もっと死者の数は増えるだろう、というのがここで述べられている。この中で施設を撤去しなければならない願阿の心境やいかに。
義政は確かに資金を援助している。その一方で義政は自分の生活態度を改めようとはしなかった。飢饉のさなかでも自身の屋敷、それは確かに公的な意味を持つものではあったのだが、その造営を中止しなかったことが人々の怒りを買ったのだ。その辺義政は政治家としてのセンスが欠落していたのであろう。