『看聞日記』永享3年7月10日条

飢饉関係の史料で目についたものを。
『看聞日記』は後花園天皇の父の伏見宮貞成親王の日記。『看聞御記』とも。
まずは本文。

十日。朝雨下。(中略)抑去月以来洛中辺土飢饉及餓死。是米商人所行之由露顕之間、去五日米商人張本六人侍所召捕糺明。被書湯起請。皆有其失糺問之間白状。諸国米塞運送之通路。是所持之米為沽却也。又飢渇祭三ヶ度行云々。与党商人も皆召捕。張本六人被籠舎可被斬云々。所司代依此事失面目職辞退云々。洛中飢饉以外也。自公方被定法。可米札沽却之由被觸云々。

読み下し。

A そもそも去月以来、洛中辺土の飢饉、餓死に及ぶ。
B これは米商人の所行の由、露顕の間、去る五日米商人張本六人を侍所が召し捕り糺明す。湯起請を書かる。みなその失ありて糺問の間、白状す。
C 諸国米の運送の通路をふさぐ。これ所持の米の沽却のためなり。又飢渇祭りを三ヶ度行うと云々。
D 与党商人も皆召しとる。張本六人は籠舎せられ、斬らるべしと云々。
E 所司代もこのことによりて面目を失い、職を事態すと云々。
F 洛中飢饉以ての外也。公方より法を定めらる。米札を沽却すべきの由触れらると云々。

Aで飢饉の死者が出ていること、Bでその原因が述べられている。米商人が関与していることが取り調べの結果明らかになった。
Cでは米商人のやったことが書かれている。洛中への米の輸送を途絶させ、米の消費地である京都周辺での米価を高騰させ、米を高値で売り抜けようとしたのである。いわば米を使って投機をしていた。米価格に投機マネーが流れ込んで実需以上の高値になった、というのである。また米が高騰し、人々が困ればより高く売れるので、人々の飢えを願う祈祷までやっていた。
D以降はその後処理である。主犯6人は処刑、共犯も逮捕された。また京都市内の治安を司る侍所所司代も辞職に追い込まれた。Fでは6代将軍足利義教によって米価の安定化政策が行われたことが示されている。
まずこの史料で目につくのが「湯起請」であろう。これは「盟神探湯」と同じで、熱湯に石を入れ、それを拾わせる時に火傷すれば「失あり」つまり有罪、火傷がなければ「失なし」つまり無罪、というものであった。湯起請は足利義教の時にかなり行われた。その背景には自身が籖引きという「神意」を受けて将軍になったという義教の個人的事情が関係あるとも言われている。それで有罪になればたまったものではないが、当時はその点はアバウトである。鎌倉幕府でもネズミに尿をかけられたり、むせたり、鼻血が出たりすれば「失あり」と判定されて有罪判決が出ることがあった。その辺は近代社会に生きる我々の想像を絶している。
目につくのは義教の積極的な介入である。米商人が米取引市場に投機マネーを投げ込んで高騰させたことに対し、義教の主導のもと、積極的に介入している。またこの記事を読む限りは義教がものすごく立派に見えるが、これは『看聞日記』を書き記した貞成親王にとっては義教は大恩人だったからである。
義教が兄足利義持の死を受けて室町殿となった直後の課題は皇位継承であった。義持が急死する以前から称光天皇は重体で、いつ死去しても不思議ではなかった。そのさなかに義持は急死したのである。称光天皇も義持の死後半年近くで死去した。称光天皇には子どもはいなかったし、弟の小川宮も称光天皇に先立って死んでいたので、仏門に入っている一休宗純しか後小松上皇の血筋は残されていなかったのである。有力な後継者としては大覚寺統であろうが、それを望まなかった当時の幕府と朝廷は持明院統の中の崇光院流の彦仁王を天皇に就けることにして、彦仁王の践祚に踏み切ったのである。最終的にそれを決断し、滞りなく彦仁王を践祚させた義教に、彦仁王の父の貞成親王が好意的になるのは当然だろう。