足利義教御内書と畠山満家書状

御内書には大名の添状がもれなく、なのかどうかは知らないが、ついてくるものだ。『上杉家文書』に収載の足利義教御内書を見てみる。

1
長尾上野入道無二心中候之由、連々聞及候。尤神妙、向後彌致忠節候様、尚々可被申付候。殊更太刀一腰遣之候。可被伝候也。
十一月廿八日 (義教花押)
左衛門督入道殿

2
為身上御感、宛愚身被下御自筆之御書候之間、進之候。同被遣御劔候。旁以面目不可過之候。彌不可有御等閑候。恐々謹言
十一月廿八日 道端(花押)
長尾上野入道殿

上の1が畠山満家宛の足利義教御内書。下が長尾邦景宛の畠山満家書状。長尾邦景は越後国守護代だから上杉謙信の祖先に当たる。越後長尾氏は満家を取次としていた。だから義教の御内書は満家に渡され、満家は添状を付して御内書を邦景のところに送ったのである。だから邦景の子孫に当たる米沢藩主上杉家の手元に残っている。
義教の御内書といえば南部氏に出された御内書が私にとっての懸案事項であるが、南部氏への御内書を取り次ぐのは斯波義惇であろう。山名時熙や赤松満祐と違って満家一人が御内書を主張したのは、満家がこの問題の当事者であったことをうかがわせる材料ではある。満祐が呼ばれたのは、浪岡北畠氏との関係であろうか。
ついでだが、しばしばみられる論として、下国氏が十三湊んきもどったことの証左として下国盛季が「十三湊」を名乗りに入れていることが挙げられるが、それは本貫の地であることを示しこそすれ、当知行しているか否かとは関係がない。毛利にしても大友にしても、彼らがその名前だからと言って、相模国毛利郷や大友郷を当知行している、と考える人はいないだろう。それくらいの荒唐無稽な議論がまかり通るのが、下国氏十三湊還住説なのである。