足利義昭御内書の解釈

せっかく国家鮟鱇氏が解釈を提示してくださっているのだが、私の解釈とはいささかことなるので、解釈を提示してみる。

就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節甲州令和談、天下静謐馳走頼入候。為其差越一色中務大輔。猶藤長可申候也。
三月廿日 御判
徳川三河守どのへ

私の解釈は以下の如し。

近ごろ信長の放恣な振る舞いが続き、城も落とされました。そこでこの時期に甲州武田氏と和談して、天下静謐のために活躍して下さるように頼みます。そのために一色中務大輔を遣わしました。なお藤長が申すでしょう。

ポイントは、「城都」とする解釈はとらなかったこと。この文書は『後鑑』に従う限り、義昭が京都を出る前の御内書であり、「城都」というのは「城郭」を書き誤ったものと考えざるを得ない。
信長包囲網の一員を形成する武田氏との「和談」を家康に勧めるのは、信長に対する反旗を翻せといっているのと同じであって、それを単に「説明」する、ということは考え難い。まして家康と関係のない上杉と武田の和睦を家康に説明するのはなおさら不自然である。同日に上杉謙信あての御内書も出されている。甲越と本願寺の三和をとげ、上洛をうながす御内書である。武田と対立する上杉謙信にも信長包囲網に参加させようというのだから、見境ないというか。他に浦上宗景と、宗景と対立する宇喜田直家にも送っている。見境ないな。
追記
国家鮟鱇氏が言及くださった足利義昭御内書(その6) - 国家鮟鱇
私自身「然此節甲州令和談」の解釈に自信が持てなかったので、ここは氏の「足利義昭甲州に和談を命じた」という解釈に従いたい。発給の年次と「城都」か「城郭」かという問題は、中村孝也氏の著作を見てからにしたい。
とりあえずいろいろご教示くださった国家鮟鱇氏には感謝したい。