一色藤長宛徳川家康書状

天正三年、足利義昭徳川家康のところに行こうとしたらしい。

内々御床敷之処、酒井左衛門尉、石河伯耆守かたへ之音簡即遂被見候。然者無何事其国御滞在之由候。万々令察候。兼又不図此方へ可有御越之由候。何篇不可有無沙汰候間、必待入候。尚具両人可申候間、不能懇筆候。恐々謹言。
二月十二日 家康判
一色式部少輔殿

これついての中村孝也(故人であり、偉大な研究者であるのでよびすて)の見解(『徳川家康文書の研究』)は以下の通り。

義昭は同年十月紀伊由良の興国寺に舘し、諸国に檄して信長を討たしめようとした。天正二年三月二十日にもこの意味の内書
家康に下し、翌三年には近臣一色藤長をして家康の家臣酒井忠次石川数正に遣って三河に下向の意を漏さしめたので、家康はこれに対し、藤長にこの儀令的の答書を遣ったのである。(同書上巻ニニ八頁)

やっぱり義昭は見境のない奴だな。