九州探題について考える1

画像は大友宗麟(新)

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大友宗麟は最後の九州探題であり、それは足利義輝の遠国支配の再構築と密接な関係があり、義輝による伊達晴宗の奥州探題と同年の1559年に行われているわけであるが、一門ではない実力者を探題としてつなぎとめる義輝の政権は、従来の室町幕府とは大きく転回をとげた、新たな政権ではなかったか、と黒嶋氏は「九州探題考」(『中世の権力と地域』高志書院、2012年)において主張する。
ここでも次の問題が出てくる。なぜ九州探題なのか、と。奥州探題の場合、奥州探題世襲した大崎氏は健在であり、伊達晴宗にとっては、奥州探題大崎氏を克服することは、避けて通れない道であったことは理解できる。一方、九州探題世襲してきた渋川氏は1554年を最後に姿を消す。渋川氏を擁立し続けてきたのは大内義隆であるが、義隆は1551年に陶晴賢によって横死していた。義隆の後継者に自らの弟を送り込んで大内氏支配下に収めた宗麟にとって、もはや九州探題の虚名は必要なかったはずである。実際、宗麟は渋川義基を追放している。おそらくは陶晴賢と大内晴英が毛利元就によって滅亡していることが大きいのではないか、と考えている。
南北朝時代、九州は当初は足利尊氏の地盤であったが、足利直義との対立の中で、後醍醐天皇の皇子の懷良親王が勢力を伸ばし、尊氏方の一色範氏を追放し、続いて直義方の少弐頼尚を破って九州を制圧し、明から日本国王冊封されるなど、室町幕府にとっては看過できない状況となっていた。その解決のために細川頼之が送り込んだのが今川了俊であった。了俊は細川頼之の強いバックアップのもと、九州制圧を進め、懷良を筑後の山奥に追いやり、菊池氏の勢力を抑え込んだ。しかし少弐冬資の暗殺で島津氏の離反を招き、挙句に九州探題を解任される。了俊の九州探題解任については、細川頼之の失脚と斯波義将管領就任の影響が大きいと考えられており、斯波義将の娘婿である渋川満頼が九州探題に就任していることは、それを裏書きする。また了俊は独自に高麗と通交を行い、それが外交権の一元化を目指す足利義満にとって危険な存在になっていたこともあるだろう。
了俊の後の九州探題になった渋川氏に対しては、了俊の強大化が室町幕府にとって危険な存在になったことを教訓にして、当初から権限をあまり与えられず、それゆえ弱体であった、とされている。1425年に少弐満貞に渋川義俊が攻められ、博多から没落して以降、急速に九州探題の勢力は衰え、肥前の一勢力として名目的に探題を継承するにすぎない、とされる。
黒嶋氏は、「九州探題考」において、通説に対する疑問点を次のようにまとめる。
まず、幕府政治史との関係である。もし九州探題が必要な役職ならば、渋川義俊没落後、九州探題復活に動かなかったのはなぜか、という疑問が出る。渋川氏停滞の理由を、幕府の九州統治政策の中で考え直す必要がある、という。
二つ目は、百年間に渡る衰滅過程である。当該時期の九州の政治構造において九州探題は如何に位置付けられていたのか、考える必要がある、という。
三つ目に、渋川氏の空白期とされる16世紀についてである。