九州探題について考える2

画像は大内義隆

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九州における室町幕府の拠点の一つが大内氏であった。応永の乱で大内義弘が討たれるが、弟の大内盛見が幕府に抵抗した後、室町幕府に帰順して以降、室町幕府の九州政策の要となる。盛見の死後、義弘の子の持世が継承し、教弘、政弘、義興、義隆と続く。
九州のもう一つの軸が反大内連合で、少弐氏、大友氏という鎌倉幕府以来の守護の系譜を引く名族で、中でも少弐氏はしばしば幕府と対立し、倭寇の重要な構成要員となっていった。
その中で渋川氏の立場は、国際交易港である博多を支配し、朝鮮や南蛮との交渉の窓口となっていた。
足利義持の治世には明との冊封関係を解消するという事件があり、また朝鮮が対馬に攻めてきた応永の外寇という事件もあった。その中で渋川氏は朝鮮との関係改善の窓口となっていた。応永の外寇の時に派遣された義持の通信使に対する回礼使として来日した宋希璟は、九州探題の警固によって博多から赤間関(下関)まで到着することができた。赤間関からはもちろん大内氏の警固である。
義持の時代には南蛮使節の到来もしばしば見られた。小浜にやってきて象を献上したパレンバンの施進卿は有名であるが、ジャワの陳彦祥などが史料上確認できる。彼らが到来した時、海上警固を島津氏に命じていたのは九州探題であった。
渋川満頼が引退し、子の義俊が継承したが、義俊は少弐満貞と戦って敗北し、博多を失う。幕府は制圧軍として大内盛見を派遣し、渋川満頼に後方支援を命じたが、博多を回復することはできなかった。義俊の後は従兄弟の満直(満頼弟の満行の子)が継承するが、黒嶋氏は義俊から満直への継承が平和裏に行われたのではなく、満頼の引退と少弐満貞との戦争を通じて誘発された満頼系渋川氏から、満行系渋川氏への家系の交代である、と推定している。
渋川氏の博多喪失に追い打ちをかけるように、室町幕府でも大きな変化が起きていた。足利義教が新たな室町殿になると、義教は日明貿易の復活のために、九州の体制に改変を加えた。筑前国を直轄領とし、大内盛見を代官に任じ、鎮西并唐船奉行を設置し、外交権を渋川氏から剥奪したのである。さらには大内盛見と大友氏との合戦にあたっては、渋川氏は作戦の中枢から外された。
しかし盛見が少弐満直によって討ち取られ、盛見の後継をめぐって大内氏内部が分裂すると、幕府の九州政策は転回を余儀無くされる。具体的には筑後守護を見返りに菊池氏の取り込みを図り、大内持世を軸として大内氏の立て直しを図る。一連の九州政策の転回の中に大友・少弐氏宛の御内書を、渋川氏宛の御内書に統一し、大友・少弐氏には探題宛の御内書を見せる体制に切り替えた。それはつまり、探題を守護の上に位置付ける政策であった。
大内氏はしばしば実質的な九州探題であった、と評価されるが、大内氏豊前筑前の守護でしかなく、他国への公的な軍事指揮権を保持しない。あくまでその地位は室町殿との私的な関係でしかなく、公的には将軍ー探題ー守護・国人であった、とされる。まあ公的か私的かという議論にどの程度意味を見出すべきか、という議論は難しいが、個人的な印象をいえば、大内氏の位置付けを担保するのが室町殿との私的な関係であったとしても、それが室町時代における序列ではあったのではないか、という気もするし、大内氏室町幕府における位置付けについては、慎重に考えなければならない問題ではある。
小早川則平は九州探題の立て直しのための新たな探題補任を献策しているが、幕府はそれを誰が探題になっても大内氏や大友氏を頼らざるを得ないので一緒である、として退けている。それは幕府がもはや権限の強い探題中心の体制を望んでいなかったことの証左であり、義教は探題満直に満頼なみの権限を与えなかったのである。
義俊没落ということにだけ注目して、渋川氏の衰滅と位置付けると、幕政との関係を見失うのではないか、と黒嶋氏は主張する。
個人的な意見を少しだけ言えば、畠山満家に着目することは有効であるように思われる。満家は九州について、「無為」のための不介入を主張して義教と対立するが、これを「無為無策」と解釈しても、「無為」という政治理念で説明しても、何かが抜け落ちている気がするのだ。この辺を匿名のブログで発信してもほとんど意味がないので、近いうちに査読誌の書評欄でさわりを公表し、遠くない将来に畠山満家論を書いて見たいと思っている。とりあえずは満家が菊池氏の手筋を務めていることと、大友・少弐宛の御内書の扱いを献策していることの意味を考える必要がありそうだ。