九州探題について考える3

画像は龍造寺隆信

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槍隊剛撃のスキルを持つが、高い指揮能力と騎馬鉄砲対応力を活かして、騎馬鉄砲武将として使うことが多い。特武将なので、比較的入手しやすいのもポイント。しかし排出停止になってしまった。騎馬鉄砲フル攻撃をして、合戦報告書に「龍造寺隆信が槍隊剛撃Lv1を発動」とあると悲しくなるw
それはともかく龍造寺氏の領国は、九州探題渋川氏の支配領域とほぼ重なる。渋川満直の次の渋川教直は1442年に少弐氏退散を幕府に報じ、細川持之から「九州静謐目出候」という書状を送られている。黒嶋氏は「九州静謐の担当者とは九州の軍事指揮権保持者となろう」としている。1442年と言えば、足利義教がや大内持世が殺害された嘉吉の乱の翌年に当たっており、持之も畠山持国との抗争でその影響力を大幅に減退させていた時期である。この年には持之は管領を辞任し、直後に失意の死を遂げてしまう。菊池氏や大友氏に肩入れをする畠山持国の台頭が九州情勢にどのような影響をもたらしたのか、を考える必要があるだろう。
渋川教直は大内教弘と協調しながら、肥前国を本拠地にして活動する。応仁の乱では当初は大内政弘と組んで西軍に投じるが、東軍についた少弐頼忠や大友親繁の攻撃の前に敗走し、やがて東軍に身を投じる。東西両軍の和議が成立すると、政弘は教直と和議を結んで少弐頼忠追討に乗り出す。
日向国人の野辺盛仁が細川勝元に提出した報告書では「探題が欠けているので、九州惣大将を大友にやらせるべき」*1とされており、肥前東部に集中する探題領の没収を提案してもいる。黒嶋氏は、探題教直が西軍に属したため九州東軍の統括者がいないという意味であり、九州の軍事指揮権が探題に属していることを示しているとする。
もう一つ、盛仁が探題領として没収を提案している地域について、従来「東肥前の一勢力」と位置付ける見解が主流であったが、黒嶋氏は東肥前、現在の佐賀県は九州の要衝で、また姪浜港湾都市であり、探題は物流拠点を重要な構成要素としているとして、渋川氏の勢力を単に衰滅と位置付けることに異議を唱えている。
問題は肥前国守護の記録がないことであり、肥前国守護は設置されていなかった可能性が高いと考えられている。その理由について、従来は幕府ー守護体制の弛緩と考えてきたが、黒嶋氏は筑後国守護が頻繁に代わっており、守護職を地域紛争解決の手段として利用している幕府が、肥前におかないのは体制の弛緩ではなく、あえて設置しなかったのではないか、と考えている。別人を守護にすれば、探題は圧迫されるし、逆に探題に守護の兼帯を認めると領国形成をはじめ、了俊の二の舞となる。だから幕府はあえて守護を設置しなかった、ということである。
この方針が固まったのは、足利義教の代である、とする。というのは満頼までは肥前守護が設置されているが、満直の代以降肥前守護の記録が見えなくなるからである。それ以降、探題には九州における権威と軍事指揮権が残され、探題領の領主として継続する、という。
探題がなぜ設置され続けたのか。探題領は幕府の橋頭堡であり、探題はその管理者としての側面が存在したこと、もう一つは外敵の恐怖である、と黒嶋氏はいう。
この問題は黒嶋氏自身が主張する探題の満頼から満直への代替わりの問題をからめて整理し直す必要があるのではないか、という気もする。義教の時代に筑前を直轄領としたことと、大内盛見をその代官に任じたことによって、探題の必要性は喪失するとは言えないまでも、相当変化したはずであり、その変化は探題の存在意義に関わる変化であったはずである。外交権を剥奪し、大内氏に実質的に九州の支配を委任する方向で固まったのちに、なぜ探題が権威と軍事指揮権を残して継続したのか、ということについて、さらなる考察が必要であろう。

*1:原文では「探題欠之時分ニ候、九州惣大将大友方江被仰付候、可然候」