九州探題について考える4

画像は陶晴賢

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周知のように大内義隆を滅ぼした人物であるが、足利義晴偏諱を受けていることに注目したい。大内義隆が属していた足利義稙とは異なるラインに位置付けられるのであり、これが陶晴賢による下克上などではないことが、晴賢という名乗りに現れているのである。ちなみに晴賢と名乗る前は義隆の偏諱を受けて隆房と名乗っていた。
この問題を考えるには明応の政変について抑えておく必要がある。そしてそれは空白期とされる16世紀前半の渋川氏を考えるにも避けて通れない事件なのである。
足利義政の後継者であった足利義尚が父に先立って死去したのち、義政や富子は義政の弟であって、一時は義政の後継者とされていた足利義視の子の義稙(最初は義材、のちに義尹と名乗るが、煩雑なので義稙で統一する)を擁立するが、義稙は義政の死後、富子と対立し、また畠山政長と組んで将軍権力の強化に乗り出していた。富子は細川勝元の子で山名宗全の孫に当たる細川政元と組んで足利義稙を将軍から引きずり下ろし、代わりに義政の兄で堀越公方を務めていた足利政知の子の足利義澄を新たに将軍に擁立する。義稙は逃亡して大内義興を頼り、公方は義稙ー大内氏と義澄ー細川氏の二つのラインに分裂する。だからこそ明応の政変こそが戦国時代の始まりだ、と言われるのである。ちなみに政知死後、政知の地位を継承した茶々丸は義澄の母で自らの義母であった女性を殺害し、その仇討ちのために義澄によって派遣された伊勢盛時が、後に北条早雲とされる人物である。その意味では「北条早雲はいなかった」とも言える。これはつまり「北条早雲」を名乗る人物はいなかった、ということであるが、同時に素浪人から身を起こし、関東を制覇した下克上の象徴としての北条早雲などいなかった、ということである。伊勢盛時は室町公方の足利義澄の権威のもとに堀越公方を滅ぼしたのである。
九州では義稙と義澄の分裂がより大きく作用した。義稙は大内義興のもとに身を寄せ、九州は義稙ー大内氏の拠点を形成する重要な要素となる。対して大友氏や少弐氏は義澄に従って大内氏に対抗することになる。義稙派の巨頭であった大内義隆を滅ぼし、大友義鎮(宗麟)の弟を擁立した陶隆房が義澄の子の義晴の偏諱を受けて晴賢と改名したのは、義澄の勢力が九州に大きく力を伸ばしたことを意味する。
大内政弘の代、応仁の乱終結した頃、渋川教直の後継者の万寿丸が、少弐政資と戦って敗死するという事件が起こった。続いて政資が大内義興によって自害に追い込まれるが、この背景には明応の政変が存在した。義興は義胤を匿い、義澄派についた政資を敗死に追い込んだのだが、そのころ渋川万寿丸の弟が義稙(当時義尹)の偏諱を受けて尹繁と名乗って、義稙派として活動を開始していた。これ以降の渋川氏については、史料があまり残存していないが、黒嶋氏は文書に現れた渋川氏の当主を調べ上げている。黒嶋氏の整理に従って、それらをあげておこう。
大内義興足利義稙を奉じて上洛を果たし、細川高国と組んで義稙の将軍復帰を成し遂げた。上の剣豪として重宝する塚原卜伝が京都に修行にきていたのもそのころである。このころ渋川氏の当主は尹繁ー和是ー稙直と継承されていたが、稙直と並立して、大友氏が擁立したと考えられる「渋川右衛門佐」なる人物が存在した、渋川氏は義稙ー大内氏派と義澄ー大友氏派に分裂したと考えられている。
大内義隆肥前侵攻の時に渋川稙直の弟の尭顕は義隆に従わず、彼の子孫が鍋島直茂に従って、鍋島藩士渋川家となる。義隆は代わりに渋川義基を擁立した。
大内氏に顕著であるが、なぜ渋川氏を擁立し続けたのか、という問いに対する答えは、それが意味があったから、となる。どういうメリットがあったのだろうか。
黒嶋氏の整理に従えば、将軍に近い血縁者を擁立することで、将軍が保有する権限を自らの分国外に及ぼすことができる、という点を挙げられるだろう。大内氏にとって大友ー少弐連合に対抗するためには、九州探題は欠くことのできないものだったのである。
しかし大内義隆陶晴賢によって殺害され、大内ー大友の対立軸が失われると、九州探題の存在意義は消滅する。1554年を最後に渋川義基は史料から姿を消し、同年、大友宗麟肥前守護職に任命される。翌年には探題領の姪浜が大内領に編入され、九州探題渋川氏は解体される。