安東愛季を考えてみる

画像は安東愛季。上の弓攻カード。

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もちろん黒嶋敏氏の『中世の権力と列島』(高志書院、2012年)の書評関連企画。この著書が出た時、「オワタ」と思った。私のテーマとかぶる話を黒嶋氏にされては、圧倒的に先を越されてしまう。早速氏の著書を入手したら、私とはスケールの違う雄大な話だった。と思っていたら、某史学雑誌より書評の依頼。よく私みたいなこんな無名の人物を発掘してきたな、と感心した。
今回は「室町・戦国期の安藤氏と小鹿嶋」。私も一応専門にしている安東氏関係。私はもっぱら下国氏オンリーだが、黒嶋氏のすごいところは湊氏を取り上げて考察してしまうところにつきる。湊氏は下国愛季によって吸収合併され、消されるので実像が今ひとつ明確ではないのだ。
愛季にいたる津軽安藤氏(安東氏)の歴史をざっと見ておこう。ちなみに安藤と安東の使い分けは今ひとつアバウト。史料上「安藤」はあるが、「安東」は後世の史料に限られる。室町後期からは「安東」も使われるので「安東」がまちがいともいえない。黒嶋氏は「安藤」を使っているが、一応戦国IXAの運営に敬意を表して室町後期の政季以降は「安東」表記とする(←オイ)。
十三湊を本拠とした安東水軍で知られる津軽安藤氏だが、その出自は不明である。通説では安倍姓を名乗る在地の勢力ということだが、私は得宗被官が得宗領の支配のために派遣されたものと考えている。「地蔵菩薩霊験記」にはそのように書かれている。日蓮の文書に「安藤五郎がゑそに頚をとられた」とあることから、鎌倉時代中期には蝦夷支配を担当していたようだ。鎌倉末期には同族の争いがあり、室町時代初頭に秋田の湊氏、十三湊の下国氏に分かれ、室町中期には下国氏が南部氏との戦闘の末に衰亡、傍流から政季と家政が継承することとなる。政季はやがて湊尭季の招きによって檜山に本拠を移し、愛季にいたる。愛季は湊氏を併合し、安東氏を統一する。愛季は織田信長と結びついて叙位任官を実現するが、その時に安東氏の独特な系譜意識が問題となる。安東氏は安倍貞任の子孫であり、さらには長髄彦の系譜を引いていることが問題視されたのだ。
黒嶋氏が着目したのが男鹿半島。愛季の本拠地であった。安東氏に関する研究は1990年代に非常に活況を呈する。一つは自治体史編纂、もう一つが十三湊遺跡をはじめとする発掘調査の進展である。
安藤氏研究の一つの到達点が遠藤巌氏の「ひのもと将軍体制」論で、津軽安藤氏は蝦夷沙汰と呼ばれる中世国家の北方支配のラインに「ひのもと将軍」として位置付けられ、織田信長安東愛季の接近も信長の北方支配構想の一翼を担っていたとする論である。
日本海ルートを重視する遠藤説に対して太平洋側のルートの重要性を説く入間田宣夫氏の「パックス南部」論である。津軽安藤氏が十三湊を没落して後は、南部氏が北方支配を担っていた、という考えである。黒嶋氏は南部氏の支配体制の安定期の長さや南部氏が日本海側を支配できなかったこと、体制的には大崎氏の支配下にあることから、「パックス南部」論には無理がある、としている。
私は大崎氏云々については、大崎氏の下にあることが、必ずしも「パックス南部」論を否定する論拠にはならない、と考えているが、「パックス南部」の現れと入間田氏が考えている史料は、南部氏の支配が崩れて以降の史料であることを論じたことがある。「パックス南部」体制は非常に短期間に崩壊したのであって、北海道と本州を結ぶルートを最終的に掌握したのは、日本海ルートを抑える安東政季と弟の安東家政だったのである。そして政季とその子孫による檜山安東氏は蠣崎氏を支配下に収め、蠣崎季繁とチコモタイン・ハシタインによる道南の分割が実現し、その成立に安東舜季(愛季の父)が関わることで、北海道ー本州のルートを、言い換えれば「蝦夷沙汰」を掌握し続けるのである。
遠藤説に対しては静態的である、と黒嶋氏は批判する。室町時代を通じて同じ「ひのもと将軍」体制で説明できるか、ということである。室町幕府の支配が一様ではない以上、北方で同じ体制が続くとは考えられない、とする。