安東愛季について考える2

画像は蠣崎季広。序の弓防カード。基本的に使い様がない。私以外の人はほぼ合成のための生贄だろう。

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一般にはアイヌとの条約を成立させ、和人地を確立した人物として知られる。和人地確定の時に安東愛季の父にあたる安東舜季が関わっていることからも、当時の蠣崎氏が檜山安東氏の支配下にあったことは間違いがない。季広の子の松前慶広の時に安東氏の支配下を脱した、とされている。
蠣崎季広の功績の一つとされる和人地の確定について、『新羅之記録』では、アイヌを圧倒して、ハシタインとチコモタインというアイヌを東西の抑えとして蠣崎氏が設置したように書かれている。つまり和人とアイヌとの戦闘を通じて和人の権力が成立する過程なのである。実際には蠣崎氏の本拠である上ノ国をハシタインに、下国安東氏の最後の地となった知内をチコモタインに、それぞれ渡しており、15世紀中頃の和人の勢力圏より大幅に縮小しているところから、蠣崎氏とアイヌの安全保障の取り決めが定められ、蠣崎氏は交易の利益をアイヌに上納することで、かろうじて北海道における存在を許された、と考えられている。
私は『新羅之記録』の図式、すなわちアイヌ対和人の対立の図式で15世紀から16世紀の北海道の歴史を描き出すことが、すでに『新羅之記録』のフィクションに乗っかっているのではないか、と考えている。『新羅之記録』を相対化するためにいろいろ考えてきたが、この二年ほどは蠣崎季広に着目すべきと考えている。
季広がアイヌとの結んだ条約ははたして和人地の確定だったのだろうか。ここで参考になるのが茂別館の陥落である。茂別館が陥落したのは、蠣崎氏とハシタイン、チコモタインの条約成立後である、と考えられる。茂別館の発掘調査が全く行われていない状況では、はっきりとは言えないが、茂別下国氏は最後をハシタインの支配していた瀬田内で迎えている。つまりは茂別下国氏はハシタインの庇護下にあったのである。茂別下国氏を追放したアイヌは、当時渡島半島東部に勢力を伸ばしていたチコモタインであろう。1550年に結ばれた「条約」は和人地の確定などではなかった。それは蠣崎氏とハシタイン・チコモタインの取り決めにすぎない。蠣崎氏は和人の代表などではなかったのだ。おそらく道南の争乱の勝利者による渡島半島分割条約、それが1550年の条約の本質だろう。そしてそこに至る戦乱の本質は、アイヌ対和人ではなく、渡島半島の覇権を争奪する戦乱だったのだ。だから松前下国氏(安東氏の惣領家の盛季の直系の子孫)は蠣崎氏に粛清され、その後継者の相原季胤はアイヌに滅ぼされ、その跡に蠣崎氏が入部して、蠣崎氏の旧領の上ノ国に瀬田内のハシタインが入部するのである。瀬田内アイヌと蠣崎氏が結託して松前を蠣崎氏の本拠にしたのである。
本題に入ると、津軽安藤氏の歴史を黒嶋氏は四つに分ける。
第一期は津軽安藤氏が秋田に一族の湊安藤氏を成立させ、道南にいたる広い勢力圏を確立した15世紀前半で、安藤氏は室町幕府の支配体制に組み込まれ「日の本将軍」と呼称されていた時期。南部氏との戦闘で津軽から北海道に没落し、やがて安藤氏惣領家は滅亡する。
第二期は南部氏に擁立された安藤政季が南部氏の支配から自立し、下北半島から北海道、そしてやがて湊安藤氏の招きを受けて檜山安藤氏を成立させる15世紀後半。この時期には安藤氏権力の変容に伴い、アイヌ蜂起が頻発・長期化し、和人が漸次撤退していく。文献史料がひときわ少なく、詳しい様相はなお不明である、とされている。
第三期は蠣崎氏の松前進出に伴って道南の支配権は蠣崎氏に移り、檜山安藤氏は間接的な権威に後退して行く16世紀前半。湊安藤氏では幕府との通交を示す史料が増える時期でもある。
第四期は湊安藤氏が断絶し、檜山安藤氏の愛季が湊安藤氏を併合する16世紀後半。愛季は織田信長と結びつき、蠣崎氏は道南の支配権を確立し、蠣崎慶広と安藤実季は共に豊臣秀吉のもとで大名となり、近世を迎える。
黒嶋氏は以上のように時期区分を行った上で、第三期以降の檜山家と湊家を同族とくくることができるのか、という疑問を呈している。
室町幕府の文書では湊家は京都御扶持衆として位置付けられているが、檜山家は室町幕府とのつながりは史料上確認できず、安藤惣領家後継として道南地域に対する宗主権を保持していることが特徴である、とする。両者の差異がここまで大きい以上、幕府の北方支配も再考する必要がある、と指摘する。
幕府と安藤氏の関係の整理については異論はない。私がこの問題で考えているのは、安藤惣領家の衰亡過程の問題を考える必要性、そしてアイヌと和人の抗争とされる「北の戦国時代」をどう考えるか、ということである。