安東愛季について考える3

画像は「海内将軍」村上武吉(極)。

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船団爆雷スキルを持つ砲攻武将。迅速行軍と鉄砲隊剛撃スキルを追加できたので、我が九条家の主力となっている。他に上カードの村上武吉もある。こちらは兵器の速度スキルである兵器運用術を持っているが、低コストを活かして秘境要員。
檜山安藤氏は「日の本将軍」と呼ばれていたが、それは室町幕府によって正式に位置付けられたものではなく、村上水軍が「海内将軍」と呼ばれていたのと同質ではないか、という大石直正氏の指摘がある。遠藤巌氏は鎮守府将軍の別名と見ているが、安藤氏が鎮守府将軍に任ぜられた、とは考え難く、大石氏の説に私も従いたい。
津軽安藤氏は15世紀の前半においては室町幕府の北方支配体制に組み込まれていたのであり、その位置づけは「安藤陸奥守宛将軍足利義量御内書」(以下「安藤康季宛室町殿御内書」とする)に表れている。安藤康季がもたらした北方の産物は足利義量の将軍職就任を荘厳するものであり、引いては室町幕府の北方支配が機能していることを表している。ちなみに私はこの御内書を「足利義量御内書」とすることには躊躇を覚える。むしろこれは室町殿であった足利義持ではなかったか。小さなことのようであるが、室町幕府のトップを将軍とする一面的な図式になるのではないか、と思うのである。室町幕府の代替わりの指標はむしろ右大将であり、右大将になる前に世を去った義量は室町殿と認識されてはいなかったと考えられる。というのも等持院に木造がないからである。等持院に木造のない室町将軍は義量と14代の足利義栄である。義栄は足利義輝を暗殺した三好氏が擁立した傀儡であり、すぐに織田信長と組んだ足利義昭によって無力化される。だから木造が作られるはずもなかったのであるが、足利義量はそのようなややこしい事情もないのに木造がないのは、彼が室町殿と認識されていなかったことの証左である。
具体的に室町幕府体制の中に安藤氏がどのように位置付けられていたのかは、これからの課題であるが、私は永享4年の段階では畠山満家を取次としていたのではないか、と考えている。ただそれが長期的、継続的なものであるか、といえば、色々な検討を経て短期的、暫定的なものである、と考えている。一色義貫との関係が出てきてはじめて満家が関わってくるのであろう。一色義貫は若狭国守護である。一色氏を通じて室町幕府は安藤氏を支配体制の一員として位置付けていたのではないか、と思われる。
安藤惣領家の滅亡によって檜山安藤氏と湊安藤氏に分裂して以降、檜山安藤氏と室町幕府を結びつけるものは見られなくなるとされる。あえて言えば矢不来館における茶道具などの存在であろうか。矢不来館の主は檜山安藤氏の分家の茂別下国氏であろうが、茂別下国氏と室町幕府を結びつける文献史料は見当たらない。黒嶋氏の指摘するように、檜山安藤氏は室町幕府と直接結びつくことはなく、安藤氏の変容に応じて幕府の北方支配も変容しているのだろうとは思う。
黒嶋氏は幕府の北方支配について、直接支配ではなく、北方からの流通の安定を重視していた、とする。その論拠として氏が挙げるのが「政所内談記録」寛正4年(1463年)4月15日条である。細かい話であるが、出典は黒嶋氏の著書では「桑山浩然校訂『室町幕府引付史料集成 下』」となっているが、正確には「上」である。
この史料について、黒嶋氏は北方物産品が若狭小浜を経由して畿内に流通していたこと、そのルートの管理者として小浜の支配者が大きな力を持っていたこと、海上のルールまでは幕府支配が貫徹せず、慣習が重視されていることを確認した上で、畿内と北方の物流ルート上における若狭国守護の存在を重視すべきとしている。そしてそれを補完する立場に湊安藤氏があった、としている。
一つ気になるのは、この問題の決着が同じ「政所内談記録」6月26日条に載せられているのであるが、「相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主」とあることで、「津軽方面と関係する船」と見られている「十三丸」に「豊前守護」が絡んでいることを示している。これは何を意味するかは、今後の課題であろうが、私は「十三丸」が大内氏関係の船である可能性を指摘したい。それと小浜の支配者=若狭守護とも限らないのであって、武田信栄は小浜の掌握に務めるも、一色氏との対立が長期化していた。最終的に若狭武田氏が小浜を掌握するにしても、一色氏について、考える必要はあるだろう。
湊安藤氏の京都御扶持衆としての立場は、細川高国と湊宣季の数度にわたる通交にも現れている。同時期の檜山安藤氏は、幕府との関係が希薄で、海賊的存在であった、と黒嶋氏は指摘する。
湊安藤氏は通説では堯季という人物を最後に血筋が絶え、檜山安藤氏から養子を迎え、最終的には愛季によって併合される、とされている。黒嶋氏は室町幕府の政所の史料から、1555年頃に「湊次郎」なる人物が記録されていることに着目し、従来の系図には。記載されていない人物であるとしている。次郎の死去にはじまる混乱の中で檜山安藤氏から養子を迎え、やがて愛季に統合される、という道筋を描いている。