天文十八・十九 武田領

画像は武田信玄(極)

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イベントカードで配布。使い勝手がよく、赤備の主力。スキルは砲にはかからないが、それを除けば適性も悪くない。
宗教目的税戦国大名の税制の差異、つまり宗教目的の特別税であった棟別銭が、戦国大名武田氏の一般税となった経緯を見る必要がある、ということで黒嶋氏が着目したのが1549年(天文18年)の小山田信有と武田信玄の「談合」であり、甲斐国真言宗の寺院の柏尾山大善寺の修造である。
「柏尾山造営記写」に記録された大善寺の修造は以下の通りである。1540年(天文9年)に大風で屋根が壊れた大善寺の修理のために僧侶が勧進を始めた。守護の武田晴信がそれに応じて屋根の半分を修理することができた。天文19年に小山田信有による勧進能があり、その時に残り半分を修理することができた。完成供養のために武田晴信の下知・印判状を得て、1555年(天文24、弘治元年)に法会を営むことができた。
これにはいくつか不審な点がある、と黒嶋氏は指摘する。そもそも「葺板三」の損傷から、勧進勺一つで始まった小規模な修造事業が、武田晴信の参入によって大事業となり、十年の歳月と守護以下の国を挙げた協力によって完成した、という。これはただの寺院の修造ではなく、武田氏の企図したイベントと考えた方がよいのではないか、とする。大善寺修造が武田晴信の後援修造へと変化したのは、勧進能が行われた天文19年3月よりも以前で、関係者は武田晴信・小山田信有らである。天文18年には彼らの「談合」で棟別銭体制を構築している。そして大善寺は鎌倉後期に棟別銭で修造された由緒を持つ。さらには天文18年前後には寺社修造が相次いでいる。それらは武田氏による一連の事業展開であると考えられる。寺社修造と棟別銭体制を同じ人物が担う事例から考えられることは、寺社修造と棟別銭体制は、武田氏による一連の政策だった、と黒嶋氏は考える。
なぜ武田氏の棟別銭台帳に修験者が関与しているのか、なぜ武田氏は棟別銭体制と同時に寺社修造を行ったのか、という疑問を立てる。そして第一の疑問については、棟別銭の賦課権について、守護職の属性に求められるものではなく、賦課台帳については大名自身の手で用意しなければならなかったことをあげ、村々の家数、家格に精通し、棟別銭徴収の経験がある山伏が適任者であったこと、第二の疑問については、棟別銭の宗教的性格に求めるべきであることを指摘する。武田氏は寺社修造を名目に修験者を動き回らせ賦課台帳を作成し、修造イベントを盛り上げることで棟別銭の賦課主体への変質を成し遂げたと考える。