棟別銭と徳政

画像は武田信玄(天・旧)。

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武田信玄が棟別銭を導入する際に、寺社修造を名目としたように、棟別銭には宗教的要因があった、と黒嶋氏は指摘する。そしてそれとは別の特徴の存在を黒嶋氏は指摘する。毛利元就織田信長が棟別銭の賦課とともに徳政令を発布している事例に着目して、徳政令の代価としての棟別銭という図式が、中世社会において広く確認できる構図ではないか、とする。
なぜ徳政令と棟別銭が結びついたのか、という問いに対して、経済的な収支、つまり棟別銭納税者が徳政令によってより大きな利益を得ることができた、とか、公共的課題、つまり徳政令の発布を共同負担する、という側面よりも本源的な次元での関係の追究が必要である、と考える。
先行研究では徳政と有徳銭との関係、つまり徳政を呼号する権力者が富者に対しても「徳」を要請し、また民衆から富の平準化を求める意識があったことが指摘されている。そこから黒嶋氏は有徳銭と棟別銭の類似した性格について検討の必要性を指摘する。まず有徳銭も棟別銭も「徳役」と呼称されていた。しかし有徳銭はあくまでも富者に賦課されるのに対して、棟別銭はより広く課税される。
政令は徳政の一部であるが、徳政とは異常自然現象や代替わりをきっかけとした仁政を意味し、転じて政治改革を意味した言葉であるが、それは臨時の非常措置である。
「徳役」は新税の総称であり、新たな負担である新税も、新たな見返りがあれば重税とはならない。新税賦課の妥当性を示す代償が用意されていれば、権力は「徳役」を賦課することが可能だったのではないか、と推測する。
政令と徳役の関係も、特別措置としての徳政令の発布と、代価としての臨時賦課として、ともに非常の際の政策として結びついた、と想定する。徳役としての棟別銭も臨時的性格のゆえに徳政令と結びついたことになる、という。実はここが少し個人的にはわかりにくいところで、「臨時的性格」が結び付いた両者の共通点である、というのであれば分かるのだが、それが結び付いた理由であるとされると、個人的にはもう少し説明してもらわないと、説明が飛躍しているように感じられる。というか、結び付くことの理由として「共に臨時的性格を持つ」というのは弱いような気がする。
黒嶋氏は次のようにここの部分を説明する。「常ならぬ特別措置としての徳政令の発布と、その代価としての臨時賦課。ともに刹那的な政策として両者は結びついたのではあるまいか」と。そして「この想定が妥当であるとすれば、『徳役』の一つとしての棟別銭も、その臨時的性格のゆえに、徳政令と結び付いたことになる」と論を進める。しかし「この想定が妥当」であることの説明をもう少し丁寧にして欲しいと思うのは、評者の理解が足りないからであろうが、仮定を根拠にするのは、いささか危険であるような気がする。
黒嶋氏が主張したいのは棟別銭の臨時的性格であることは承知している。それならば、なおさら武田氏の棟別銭が、臨時賦課から恒久的な賦課に変質したのか、ということについての説明が必要であると思われる。
「おわりに」で黒嶋氏は「武田氏は棟別銭を税制の中心とした戦国大名であるが、その導入に際しては大規模な寺社修造イベントを営んだ上で、棟別銭体制の構築に成功した」とする。しかし問題は、黒嶋氏が指摘するような「宗教的な性格・臨時的性格性格のいろ濃さ」を持つ負担であった棟別銭を、武田信玄がどのようにして税制の中心にすることに成功したのか、ということであろう。税制の中心であるからには、それは宗教的な用途ではなく、世俗権力である武田氏の用途であり、またそれはもはや臨時的性格を持つ賦課ではなく、恒久的な税制であったからである。