中世の海事慣行の否認

画像は今川義元(天)。

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第一期では足利義昭織田信長、第二期は豊臣秀吉伊達政宗、第三期では徳川家康(大人)と石田三成と主たる対立軸が作られてきた。第三期が関ヶ原を意識しているのは言うまでもないだろう。第四期では再び信長と義昭、第五期では政宗と秀吉、第六期では石田三成が出てきたのだから、当然徳川家康(大人)が出てくるのか、そして大殿に前田利家か、と思ったら、今川義元石田三成今川義元は時代が違うでしょ、と言いたい。
これが言うためだけに無理やり作ったのが、黒嶋氏「帆別銭ノート」の「おわりに」を検討するこのエントリ(糞爆)
もともとは勧進の一種として、臨時の宗教目的で賦課されていた帆別銭が、戦国期には恒常的な入港料・警固料となるという変質を明らかにした黒嶋氏は、その背景に入港船を寄船扱いする「よそものを訝る心情」があり、また津料がその安全保障料としての意味を持っていたことを指摘する。それが十五世紀後半に船運変化と戦国大名の登場が帆別銭恒常化の原因と考えられることを指摘した。
その海事慣習の終焉は、豊臣秀吉の海賊停止令によってもたらされたとされるが、戦国大名にもそのような傾向が見て取れる、と黒嶋氏は主張する。黒嶋氏が挙げたのが、甑島で明の船の荷物が奪い取られる事件について、島津義久が「明国にまで島津家中に海賊ありとの悪評を立てられてはたまらない」と盗品の捜索を励行させた例である。海賊風聞を嫌悪し、帆別銭の設定で廻船の招聘を図るようになった時、すでに中世的な海事慣習が終焉に向けて動き出していた、とする。
ここでの「中世的」という言葉の定義について、これを突き詰めれば何か言えそうな気がする。例えば「アイヌ史的中世」をめぐる谷本晃久氏と瀬川拓郎氏の議論について、何らかの提言はできそうだ。