修験道本山派の再建

画像は武田信玄(天・新)

Copyright © 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved
武田信玄は西上野を支配下に置いたが、1568年に極楽院に信玄が認めた上野国年行事職をめぐって、大蔵坊と係争になる。年行事職は聖護院を頂点とする修験道本山派の役職であるが、信玄はこの問題を聖護院に委ねてしまう。信玄の手に余る事案だったのである。信玄はどうしても極楽院を年行事にしたかったようで、最終的に足利義昭に働きかけ、極楽院を年行事職に補任することに成功する。
黒嶋氏はこれを「戦国大名の手を離れて聖護院門跡に委ねられるだけでなく、将軍が裏で自ら指図していた」とする。しかし単純にそう言っていいのか、疑問が残る。信玄は最終的に足利義昭を通じて聖護院に圧力をかけ、自分の意思を貫徹した、と評価できないだろうか。ただ少なくとも信玄が足利義昭の介入を得なければ、本山派の役職は信玄の思い通りにならない、ということは認められよう。しかし義昭が信玄の意向に従っていることから見ても、「戦国大名の手を離れて」と評価できるか、という点は素朴な疑問としては残る。
とりあえず信玄が自分の意中の極楽院を上野国年行事職に据えるために依拠せざるを得ない聖護院と足利将軍について、黒嶋氏の著作に従って見て行く。
修験道本山派は聖護院門跡を頂点とする修験者の組織体である。15世紀前半に聖護院が熊野三山検校職を独占し、15世紀後半の聖護院道興のころには、廻国先で直接道興が先達職などの安堵・補任を行うようになり、上洛しない熊野山伏にも本山派支配が広がって行くのである。しかし1510年には一旦聖護院から三山検校職が離れ、求心力が急速に失われて行く。聖護院を継承した道増(近衛尚通の子で近衛前久の叔父)は本山派による山伏支配の体制を再構築しなければならなかった。
道増は大和大峰入峰、熊野入峰、葛城入峰と研鑽を積み、准三后になった1541年より本山派の再建に本格的に乗り出す。しかし摂関家も楽ではない。聖護院門跡は室町将軍家の護持僧を務めているが、聖護院門跡は思っていたに違いない。「他の護持僧はいいな、俺なんて入峰してんだぜ」と(笑)
武田信玄をバックに持つ極楽院と揉めた大蔵坊は、「厳重の公方御下知」に守られていた。山伏は戦国大名の分国支配に協力し、大名から山伏活動の保証を受けるが、それは聖護院からの安堵・補任の追認という形をとった。分国の領域を越えて活動する山伏は大名支配では包摂できないからである。
本山派のネットワークが全国展開し、山伏も分国を越えて活動する以上、その庇護者は全国的な影響力を持つ者がふさわしく、少なくとも室町将軍家は全国的に通用する権威を保持していたため、本山派の後ろ盾になり得たのである。