足利ー近衛体制と本山派

画像は近衛前久

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スキル名が「餓狼関白」。近衛尚通の孫で近衛種家の子。道増の甥に当たる。尚通の子は種家と道増の他に慶寿院がおり、彼女は足利義晴に嫁いで義輝と義昭を産んでいる。義輝と運命を共にした。種家の子には前久の他には聖護院道澄(武田信玄の圧力に屈して極楽院の上野国年行事職を追認せざるを得なかった人物)と義輝の室がいる。
室町将軍家の正室を見ると、初代尊氏が北条氏、二代義詮が渋川氏だが、義満以降義澄までは日野家から出している。尤も将軍が日野家外戚としているかは必ずしもそうではないが。例えば足利義持足利義教は同母の兄弟で、安芸法眼の娘藤原慶子であった。しかし義持を掣肘してきたのは義満の正室であった日野康子であったし、義教を掣肘したのは義持の正室であった日野栄子であった。義教は日野家の影響力排除に乗り出し、日野家出の正室を離縁して三条実雅の娘を正室に迎えた。だが義教のあとを継承したのは側室の日野重子所生の義勝と義政で、義政と日野富子の所生の義尚、義視と日野家出の正室の所生の義稙が続く。しかし義晴が近衛尚通の娘の慶寿院と結婚してから、近衛家外戚となって室町将軍家を支えることになった。その裏で涙を飲んでいたのが近衛家のライバルである九条家である。そのころの九条家の当主である九条稙通にとってはまさに「我が9条」ならぬ「我が窮状」だっただろう。関白も数ヶ月で辞任に追い込まれ、諸国を流浪し、本願寺に居候する。播磨国に流浪する。稙通は「我が窮状」を打開するために三好長慶と組んだのである。特の十河一存が欲しいw
ちなみに序の十河一存

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そもそも性能がショボすぎ。序ならばコストが低くないと何もならない。序に秘境要員以外の使い道などないからだ。
と、黒嶋著作の書評とは全く無関係な前置きはさておき、幕府の使者として奥羽に赴いた坂東屋富松は政商とみなされがちだが、本山派の人間として奥羽と京を往復していた、と黒嶋氏は指摘する。また白河晴広が義晴の一字拝領と左京大夫補任を受けるために派遣した使節団が聖護院から安堵を得ているように山伏であり、幕府からの使者が富松であった。幕府と白河氏を結ぶルートは山伏ネットワークに便乗したものであった。15世紀以降山伏が幕府と奥羽の連絡役を担っていた事例は多いようで、細川政元の越後下向にも山伏が関与していた。
考えれば政元は修験道に傾注して自らの身を滅ぼす。山伏と幕府の関係が室町時代を通じてのものか、政元以降深まったものか、議論が必要だと言えよう。南奥羽は以前より細川京兆家を取次としていた。南奥羽と幕府との関係を山伏が取り持つのは、細川京兆家修験道との関係を強めてからのことかもしれない。とすれば従来ともすれば逸脱と評価されがちな政元の修験道への傾斜は、意味があった、と言えるかもしれない。
義輝期になると、他地域にも山伏が関与し始める。足利晴氏の左兵衛督昇進に当たり、幕府方の実務レベルの交渉に当たったり、武田信玄に対して上杉謙信との和睦を命じる義輝の御内書を届けたりしたのも「聖護院御門主之御使僧森坊」であった。義昭が将軍後継者になると上杉謙信との和睦を調停する施設として北条氏康のもとを訪れ、氏康から義昭への使者も務めている。岩坊は毛利元就大友宗麟と交流を持った人物であり、幕府と特定大名との間を連絡する役割を聖護院本山派の山伏が担っていたのである。
こうした事態の出現した理由について、黒嶋氏は山伏が交通の達人であること、全国的に組織展開している本山派の場合、本山派修験勢力が中継点となり、移動を助けること、より大きな原因として幕府との本山派の近衛家を介した密接な関係を挙げる。本山派の支配構造が将軍権力の後援を不可欠としており、それが将軍権力との癒着を生んだとともに、外戚が統括する本山派のネットワークは、幕府方としても利用しやすい存在だった、とする。幕府と地方武家との交流は、かつてのように管領以下の幕臣を窓口とするものから、本山派山伏ネットワークに比重を移していた、と黒嶋氏はまとめる。
素朴な疑問として、白河晴広のように細川氏が山伏ネットワークを使っているケースもあり、単純に「幕臣を窓口とするものから、諸国に広がる本山派山伏ネットワークに比重を移していた」とまとめられるものなのだろうか、という気もする。幕臣が窓口となっている例として黒嶋氏が挙げるのが、伊達稙宗との交渉で細川高国大内義隆、伊勢貞陸らが窓口となっていることを挙げているが、白河晴広にしてもあくまでも細川氏を窓口として、連絡役を山伏が担っていたのであり、伊達稙宗の例が山伏ネットワークを利用していない、ということでもない限り、山伏ネットワークの関与がいつから始まるのか、という例として伊達稙宗の例は適切であろうか、という気がする。むしろ強調すべきは、義輝期になると幕臣の関与が少なくなり、聖護院が表面に出てくる、ということではないだろうか。
こういう書評作成企画で提出している「素朴な疑問」を、実際の書評でそれだけ使うか、というのは、はなはだ心許ない。ほとんどは匿名ブログでの「素朴な疑問」で終わるような気が(苦笑)