政僧の系譜
画像は南光坊天海。
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シークレットカードなので縁がない。
室町時代には政治に介入する政僧がしばしば出現する。足利尊氏のために光厳上皇の院宣を確保した醍醐寺の三宝院門跡賢俊はそのはしりであろう。足利義満・義持・義教の三代に仕えた醍醐寺の三宝院門跡満済はその中でも存在感が際立っていた。彼のあとを継いだ三宝院義賢は政僧にはなれなかった(本人は政僧として扱われないことに不満があったようだ)ことを考えれば、三宝院門跡だからと言って政僧になれるわけではなく、満済の場合は彼の個人的資質に負うところが大きかったようだ。
聖護院道増も政僧であることには間違いがない。終始京都にあって義教をサポートした満済とは異なって、道増は諸国を廻遊して大名間の紛争の和睦を斡旋するという形で政治に関与した。道増が関与した紛争調停は、今川義元と北条氏康、伊達稙宗と伊達晴宗、毛利元就と尼子晴久、毛利元就と大友宗麟の調停に当たっている。そしてその最中の1571年に安芸国で死去している。
なぜ道増は政僧として活動できたのか。その要因として道増が摂関家の出身であり、なおかつ将軍の外戚である、という、当時の社会秩序においては諸大名よりも上位に位置した存在であることを、黒嶋氏は指摘する。しかしなぜ道増のみが調停を行い得たのか、という疑問を黒嶋氏は提示し、道増のみが持ち得る特殊な「能力」の存在を想定する。それを考察するために黒嶋氏が提示するのは道増の先々代の道興の事例である。道興は足利義政と足利成氏、足利義政と足利義視の調停を行っている。これを黒嶋氏は道増と類似するとし、将軍との外戚関係を有しない道興の場合を考えれば、聖護院門跡自体に仲介を助ける効力があった、と考える。
いささか疑問を感じるのは、満済の例で見てもわかるように、政僧となるためには「聖護院」というバックが必要だったのか、ということである。道興と道増は将軍家との関係について言えば、共通点はない。道増と道興の共通点はとして、聖護院以外には近衛家ということが挙げられる。聖護院そのものに政僧として活躍できる要素があるのであれば、なぜ道興以前の聖護院門跡は政僧たり得なかったか、ということも考えなければならないのではないだろうか。
道増の場合は明らかに将軍家との外戚関係がプラスに作用した。しかし道興の場合は、紛争が足利家内部で起こっていることを考えると、外戚関係がなく、近衛家という貴種であったことの方が意味を持った、とは考えられないだろうか。将軍家護持僧としての聖護院について、突っ込んだ検討が必要ではないだろうか。