都と鄙

画像は大友宗麟(極)

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黒嶋氏は義輝期の政治の限界を次のように指摘する。
一つは和睦が不完全に終わること。道増などの幕府側の代表者が最終的な和睦締結までを見届けずにその場所を去る傾向が強い。二点目は和睦締結後の抗争再燃を防ぐ手段が縁組しかないこと。幕府の強制力には期待できない以上、私的な縁戚関係に頼る他はない。三つ目は大友宗麟のように幕府の和睦を「一篇之和平」に過ぎない、と看破し、さらに「畿内とハ西国かたハ殊外相違」と、中央からの自立意識を持つ大名の存在である。
その意味で幕府が和平を遂行するのにはかなりの困難が伴ったことは事実だが、黒嶋氏は「一篇之和平」であっても、締結しうる「権威」であり、また紛争地の御料地化や城郭の破却などの措置も取られており、大名側に調停を受け入れる素地があったことも事実である、とする。
では、なぜ困難があることを承知で義輝は和睦調停を推進したのか。従来は将軍による上洛督促と礼銭目当てという説明がなされてきた。しかし黒嶋氏はまず義輝が停戦後の大名の上洛まで実現できると考えていたか疑問であり、また経済的理由が第一義であるとも考え難いとする。そして黒嶋氏は山伏を媒介者として将軍と列島の諸大名が結びつく様相から、地方情勢にも積極的に視野を広げようとする義輝の姿勢を見出せるとする。
そのキーワードとして黒嶋氏が挙げるのが「都鄙」である。「国内」という意味、さらには「足利の秩序(に包摂される社会)」という意味で使われている、という。
戦国期にあっても将軍は武家社会秩序の頂点であった。戦乱によって将軍と諸大名が疎遠になることは、将軍が自身の存在基盤を失うことにつながる。義輝が地方支配に積極的であったことは、黒嶋氏が明らかにした伊達晴宗の奥州探題補任や大友宗麟九州探題補任からうかがえると、黒嶋氏はいう。紛争調停も「都鄙」実現の一環として介入することに第一義があったのではないか、と主張する。和睦は周辺諸氏に対しても将軍の存在をアピールする政策であった、という。
こういう義輝の幕府は全国政権として武家に対する一応の支配権を保持したという点で、天皇権威や、三好政権とも異なる、という。と同時に義輝の幕府は義輝以前の幕府と比べても大きな違いがある、という。幕府ー守護体制は16世紀半ばに崩壊し、道増が調停役となる頃には政務決済期間である内談衆も解体していた。義輝は近衛一門を活用して地方への影響力を確保し、畿内の指示基盤の弱体化に対応し、秩序の再生産を図ったのであろう、とする。
藤木久志氏の豊臣平和令に関する論考において、藤木氏が義輝の調停活動を、将軍の存在が認められればよかったとのみ評した見解を「一面的」と批判し、義輝の全国支配への意欲などを捨象している、とする。藤木氏は織田信長の和睦介入に強権論・天下論の積極的に見出し、豊臣秀吉に至って領土裁判権までを振りかざした秀吉停戦令への段階差を抽出しようとしたとし、むしろ必要なのは義輝の調停活動が秀吉に如何に継承されて行くのかを慎重に検討する必要を主張する。