関東衆の検討

画像は九戸政実

Copyright © 2010-2013 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved
豊臣秀吉の奥州仕置に反発して挙兵した人物。その鎮圧に当たり秀吉は織田信長譲りの撫で斬り(殺戮)を指示したことでも知られる。北方史の研究(北東北と北海道の研究のこと)ではこの時に松前慶広が動員され、慶広の率いる軍勢にアイヌが参加していて、毒矢が非常に大きな威力を発揮したとされている。宣教師の手紙でも「日本の支配下にありますが、イェゾの王」とされている。ちなみに現在流通している訳では「日本人ですが、蝦夷の王」とされているが、明らかに「日本」と「日本人」を取り違えた誤訳である。
「関東衆」とされた人物を先ほどの「外様衆」と同じように検討すると、同時代史料で合致する例が少なく、系図類で辛うじて確認できる例も含めてはっきりした名乗りが確認できないものが多い、と黒嶋氏はいう。小田氏治が讃岐守を名乗った事例は確認できないが、ここでは「小田讃岐守」となっているし、里見義堯も「安房守」を名乗った同時代史料が確認できないという点が疑問である、とする。佐竹義重も「佐竹次郎」とされているのに「佐竹修理大夫」となっているというような事例が多い、と指摘する。この点については、従来は「観念的」なもので必ずしも正確なものではないとされてきたが、黒嶋氏は外様衆の記載に比べて関東衆を観念的に記載して、例えばすでに死去している上杉朝定の名前を載せるようなミスを犯すだろうか、と疑問を投げかける。そして関東衆の名乗りからは、その家の近世社会における名乗りが連想され、近世的「観念」があるのではないか、とする。最上義光が出羽守を名乗るのは豊臣秀吉に従ってからであり、同様に里見忠義の安房守、佐竹義隆の修理大夫も近世になって名乗るようになるのである。
黒嶋氏はさらに九戸五郎という人物を挙げる。九戸五郎は九戸政実を念頭においたものであろうが、永禄年間に独立した地域権力として存在していたとは考えられない、とする。九戸氏は近世に作られる軍記物によって飛躍的に有名になったものであり、抜きん出て記憶されるとすれば、戦国末期以降である、とする。
さらに写本によっては、関東衆があるものとないものがあり、関東衆がある写本は江戸後期になって成立したものが多く、また故実家の家に伝来するものであった。そこから黒嶋氏は仮説を立てる。「関東衆とは、永禄年間に記されたものではなく、時代が降って、系図や記録・軍記の類に通じた人間の手により付記された部分ではないか」と。