「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」の位置

画像は松永久秀

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「謀殺」という特殊なスキルを持つカードだが、効果がよく分からないスキルなので、初期スキルには目をつぶって防禦で使えば、コスト比が活きる。槍でも弓でも馬でも悪くない。軍師適性もいいので、兵法振りで防禦中心、場合によって攻撃にも、という使い方も可能。実際攻撃に使ったことはないが。
成立時期について、長氏は前半を永禄六年ごろ、後半を永禄八年から十一年とする。黒嶋氏はそれをさらに絞ろうと考える。
織田信長尾張守と記載されているが、それは永禄九年から永禄十一年の名乗りであることを考えると、永禄九年七月から永禄十一年六月となる。それ以前は上総介を僭称し、それ以後は弾正忠を名乗る。
さらに絞り込もうとする時に、三好義継に着目する。義継は十河一存の子であり、ということは九条稙通の外孫に当たり、三好長慶の後を継いだ人物である。足利義輝の暗殺を実行した人物であるが、三好三人衆と対立し、松永久秀とともに足利義昭に寝返った。それが永禄十年二月である。三好義継が義昭方の人物として外様衆に記載されていることから、永禄十年二月以降にこの史料が成立したことになる。
とすると、この史料は永禄十年二月から十一年の五月の間に成立したものであると考えた黒嶋氏は、義昭が上洛に備えて足固めを進める時期に、義昭周辺の人物によって作成された可能性が高いとする。とすると、そこに義昭の政権構想が反映されている、と黒嶋氏は考える。旧来の幕府構成員で将軍(後継者の義昭)側近の御伴衆以下を記している、奈良脱出以降付き従う奈良御伴衆を加え、最後の外様衆に全国の戦国大名編入する。従来の幕府の同じような史料が幕臣と旧族の大守護大名のみを記していたことからすると、かなり異例であるが、義昭は戦国大名を外様衆として編成し、全国政権として君臨する意志を持っていた、とする。
外様衆の記載順序は、まず足利一門の旧守護を記し(細川昭元や畠山昭高)、各地の大名を畿内近国(六角義賢朝倉義景)、東国(北条氏康今川氏真上杉謙信武田信玄など)、東海(北畠具教、織田信長など)、九州(島津貴久、伊東義益など)、西国(毛利元就小早川隆景吉川元春など)とまとめて記し、小規模の領主を西国から東国に記して行く(最初が松浦隆信で最後から四人目が徳川家康)。特筆されるのが大友宗麟
大友義統。彼らは畿内近国と東国の間、つまり朝倉義景北条氏康の間に記されている。これは大友宗麟九州探題になるなど、足利義輝政権とも密接な関係を保っていたからであった。
さらに黒嶋氏が着目するのが、足利義輝の番帳に続けて記載されていることで、長氏は後半部が義昭の番帳であることから、「霊陽院殿御番帳」と仮称することを主張しているが、黒嶋氏は「無用な混乱を招かないためには、その方がいいのかもしれない」としながらも、義輝の番帳に続けて自らの番帳を記したことには、義輝政権の正統な後継者であることを宣言する意図が示されていると主張する。